9月に入ると、学校内は一気に落ち着きのない空気になった。
出される課題の量は増え、拘束される時間が必然的に増えていた。それに比例して、生徒たちの疲労の色も濃くなるばかりだったが、配属先の発表が近付くと、そわそわとした浮き足立つような気持ちが、伝染するように広がっていた。


「……爆発物処理班?」

なまえがぴたりと箸を止める。食堂のざわめきの中で彼女が聞き返した言葉に、松田があっさりと頷いた。

「確かに…陣平と萩は、爆処は適任だと思う…」
「だろ?…んだよ、その顔は」

松田が箸の先端を、なまえの皺の寄った額に向けるのを、伊達が軽く手を叩いて止めた。

「俺たち、前々からオファー貰ってたんだ」
「そうだったの?…そっか…なんか、勝手に、二人とはこれからも一緒にいる気がしてたから」

なまえが瞳を伏せる。その不安気な表情に、珍しくぐっと言葉を飲み込んだ松田を、萩原が肘でつつく。松田はバツの悪そうな顔をしたあと、後ろ髪をかきながら口を開いた。

「まあ、あれだ…別に、会えなくなるわけじゃねーし」
「…そう……そうだよね」
「オメーがヘマしないように、時々は様子見に行ってやるからよ」
「……陣平こそ、絶対にヘマしないでよね」
「あ?誰に言ってんだよ」

にやりと笑った松田に、なまえはやっと肩の力を抜いたようだった。彼女が、ただ所属が離れるということだけを心配しているのではないことは、その場にいる全員が分かっていた。機動隊は危険な現場の最前線。彼女が顔を強張らせたのも無理はない。

「それじゃあ、私、班長の仕事あるから」
「またね、みょうじさん」

諸伏がにっこりと笑って手を振る。
なまえも応えるように笑顔を浮かべて、席を立った。食堂から彼女の背中が消えたのをしっかりと見送ってから、松田がどん、と机に肘をついた。

「………で、オメーはどうしたんだよ、ゼロ」
「こないだの合コンから、ちょっとぎこちないんじゃない?先に帰らせたのまずかった?」
「そっけなくして、みょうじがかわいそうだろ」
「なにかあった?」

なまえと食事を共にする間、ほとんど黙ってハンバーグを突いていた降谷に、四人がまるで取調べのようにずいっと詰め寄る。降谷は居心地が悪そうに視線を彷徨わせたあと、前髪をくしゃりと掴み、伏せた顔と共に重たいため息を吐いた。

「……………自分が許せないんだ…」
「どういうこと?」
「……これ以上近付いたら、自制が効かなくなりそうで…」
「あららー、末期か」

実際には、もうすでに取り返しのつかないことをしたのだが、それを今ここで暴露するほどの勇気は降谷にはなかった。いっそのこと、正直に白状して松田に殴られれば、気持ちが切り替わるのかもしれない。

キスをしてしまったあの夜から、なまえを見るたびに、彼女の唇の柔らかさを思い出して心臓が張り裂けそうになると同時に、罪悪感で彼女の顔をまともに見ることが出来なかった。
本当は、あの後彼女が目を覚まして寮へ戻るまでの間に、降谷は自分の衝動的な行いを彼女に打ち明けるべきだった。そう頭では分かっていた。
けれど、そんな狡くて醜い自分のことを知られたくなくて、降谷はついに今日まで彼女に謝ることができないでいる。

軽蔑されたくない。けれど、キスをするほどの自分の気持ちを知って欲しい。相反する感情で、ずっと息が苦しかった。

「んだよ、簡単なことじゃねーか」

松田があきれたように大きなため息をつく。
先程伊達に指摘されたにも関わらず、びしっと箸の先を降谷に向け、顔を上げた降谷の目をまっすぐ見据える。

「さっさとちゃんと、告白しろ」

一瞬、その場の全員が黙った。意外だという顔で、諸伏が困惑して萩原を見る。萩原も目を丸くして、しぱしぱと瞬きで返事をする。これまで降谷の恋に口を挟まなかった彼が、明確に告白を後押しをするとは、彼らには想像し得なかったのだ。
ただ一人、当の降谷だけがそれを当たり前のように受け止めて、ため息を吐いた。

「……簡単に言ってくれるな…」
「んだよ、簡単なことだろ?」
「あー…まあ、ゼロの好意ってだだ漏れだから、さすがのなまえちゃんもそろそろ気付いてるっしょ」
「………え?」
「こないだの合コンで、なまえちゃん狙ってた奴、あの後なんて言ってたと思う?」

さっと青ざめた降谷に、萩原が揶揄うようにニヤリと笑う。その顔はなぜか少し誇らしげだった。

「"降谷に敵うわけねえだろ!"…だってさ」







告白については、合コンのあの夜から、ずっと考えていた。
もはや、前に進むか後に退くかのどちらかしかないのは分かっている。後に退く選択肢は、彼女のことが好きだと自覚した時に捨てた。前に進むためには、この気持ちをはっきりと彼女に伝えるしか他にない。
降谷は、何度もそう結論付けて、何度も心を奮い起こし、何度も挫けていた。

「(あの時のなまえの言葉を、都合よく解釈していいんだろうか)」

"……じゃあ、わたし、頑張ってもいい…?"

眠りに落ちる直前に、彼女が言ったあの言葉。
降谷が恋愛感情で大切な人を探しているのではないと知ったあとの"よかった"という返答。考えれば考えるほど、自分に都合の良いように結びつけてしまう。もしかして、と淡い期待が胸をかすめる。

降谷は自分のことを、可能性が少しでもあれば、勝負に出られる人間だと思っていた。けれど実際はひどく臆病で、友人に背中を押されたのに、まだその場でみっともなく足踏みをしている。

「ゼロは、術科大会は剣道で出るの?」

風呂場のタイルを磨きながら考え事に耽っていた降谷は、諸伏の声で顔を上げた。
卒業式の直前に開催される術科大会。剣道か柔道で参加するそれに、降谷は剣道で登録をしていた。

「ああ、そのつもりだよ」
「そっか。じゃあ、みょうじさんとゼロの一騎打ちだね」

あの日みたいに。
諸伏の言葉で、脳裏にあの早朝の剣道場が過った。冷たい朝の空気。古い畳の匂い。面をとって微笑んだ、朝一番に咲く花のように美しいなまえ。あの時一生忘れないと感じたとおり、いつだって驚くほど鮮明に思い出せる。

「どう?勝てる自信は」
「………どうだろう」

あの日よりも上手くなった自覚はある。けれど、なまえとの実力差は一朝一夕で縮むものではなかった。彼女の培ったこれまでの努力は、降谷には計り知れない。

「でも、そうだな……勝つさ」

降谷はデッキブラシの柄をぎゅっと握った。
あの日あっさりと負けたリベンジが出来たら、自分の中で一歩を踏み出す踏ん切りがつくかもしれない。

「勝って、その勢いで…なまえに話す」

諸伏は目を丸くしたあと、「そっか」と、これ以上嬉しいことはないというように微笑んだ。本当に大切なものを見るような彼の優しい目が、これまで何度も降谷の支えになっていた。気恥ずかしくて、今みたいに思わず目を逸らしてしまうこともあるけれど。

「ゼロが、みょうじさんのこと好きになってよかったって思うよ」
「……からかうなよ」
「本気だよ。みょうじさんも、ゼロのこと、好きでいてくれたらいいね」

諸伏の柔らかい微笑みに、降谷はぐっと言葉を呑んだ。当たり前のように自分の幸せを願ってくれる親友を前にすると、強がったりムキになったりすることが馬鹿らしく思える。

「……ああ」

どうか相手も同じ気持ちでありますように。
その願いが、こんなにも単純なのに難しいことだということを、降谷はずっと知らなかった。彼女に出会って、はじめての感情をたくさん知れたことが誇らしく、"好きになってよかった"という諸伏の言葉の意味がなんとなく分かる気がした。
なまえを好きになって、後悔はない。

「応援してる。頑張れ、ゼロ!」

諸伏が気合を入れるように、力強く背中を叩く。両親の事件を解決した彼の笑顔はどこか重たい足枷が取れたようでもあり、降谷はつられるように素直に頷いた。

自分も前に、進まなければ。





「降谷くん?」

背後からかかった声に、降谷は反射的に大きく肩を揺らす。振り向くと、袋に入れた竹刀を背負ったなまえが、びっくりした顔で立っていた。

「どうしたの?こんな時間から自主練?」

降谷はその可能性を考慮できていなかった自分を心の中で叱った。夕食後から就寝までの自由時間。早速、少しでも剣道の練習をしようとやってきた剣道場。なまえが教官から鍵を預かってまで、自由に使える時間を練習に割いていることを考えたら、鉢合わせることは容易に想像ができたのに。

「(ああ、そうか、鍵…)」

そこにも考えが至らなかった自分に、呆れてしまう。

「君も、自主練か?」
「うん。ちょっと素振りだけでもしようかなって。鍵、開けるね」

さっと降谷を追い越して、なまえが鍵を取り出す。降谷はとっさに、その細い腕を掴んだ。声音は極めて明るいものなのに、降谷を避けるように一瞬伏せられた瞳に、どうしてもそうしなければいけない気がしたのだ。

「………大丈夫か?」

なまえが跳ね返るようにぱっと顔を上げる。彼女は長い睫毛をふるりと震わせ、眩しさに耐えるように目を細めた。だいじょうぶ、その唇がそう紡ごうとして、途中で止まった。

「………降谷くん」
「ああ」

彼女がひと呼吸置いたあと、一歩を踏み出すのを躊躇しているような細い息を吐いた。降谷は思わず、手首を掴んでいた手を手のひらに移動させ、指の間に指を滑らせると、その小さな手を包み込むように握った。彼女はびくりと肩を震わせたあと、恐る恐るといったように、弱々しく指を折る。ぴったりと合わさった手のひらがひどく熱い。

「……降谷くん」

もう一度、彼女が名前を呼ぶ。
答えるようにぎゅっと手を握ると、彼女は唇をきゅっと結んでから、ゆっくりと開いた。

「たすけて…」

消え入るような微かな声。
降谷は考える前に、その細い肩を抱き寄せていた。



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