その夜、なまえは、彼女の弱いところを言葉にすることはなかった。
ただ、学校に戻った彼女は、なんだか肩の力が抜けたような顔をしていて、降谷はもうそれだけで十分だと思った。いつか、彼女の逃げ場所の選択肢に、少しでも自分のことを思い出してくれたら、それでいい。
彼女の額が触れた胸のあたりが、未だ熱い。本当は、背中をさするのではなく、抱きしめたかった。その細い肩を閉じ込めることが許されたのなら、どんなにいいだろうか。

「おかえり。みょうじさんと二人で、どこ行ってたの?」

寮に戻ると、降谷の部屋の前で、諸伏がにやにやとした嬉しそうな顔をして待っていた。

「ヒロ、なんで知って……」
「二人が戻ってくるのが、ちょうど窓から見えて。来ちゃった」

ふふ、と笑う諸伏を部屋の中に通し、降谷はベッドに座った。この親友は、どうやら降谷の恋愛に期待を持っているらしい。コンビニまで行ってただけだよ、とそつのない返答に首を傾げる。

「なんか…前より二人の距離が近くなったように見えたけど」
「本当か?」

思わず嬉しそうな顔をした降谷に、諸伏はきょとんとしたあと、同じように頬を緩めた。直後にはっと気が付いて顔を背けた降谷の肩を、がしっと掴む。

「………告白、した?」
「いや、してない………あ、」

即答してから、自分の言動を思い返して、降谷はどきりとした。

"君のかっこいいところが好きだよ"

あまりに自分の中から自然と出てきた言葉だったから気にも留めていなかったが、会話の最中に"好き"だと何度か口にした気がする。思い出して、耳の辺りまで熱くなっていくのを感じた。

「え、なに?」
「告白は…してないが……好きだとは、言った…」
「なにそれ!?」

諸伏の反応はもっともだった。降谷自身もそんなつもりはなかったのだが、考えれば考えるほど目眩がした。彼女がどう捉えたのか分からないが、降谷が自然と口にした"好き"は、確かに恋慕としての好意だったから。これまでずっと閉じ込めてきた思いが、自分の意思に反して飛び出してしまうなんて。自分に限って絶対にないと油断をしていた。熱が引かない顔を、抱えるように右手で覆う。

「…………しまった……」

自分のものとは思えない弱々しい声が出て、諸伏が愉快そうに笑った。





「合コン?」

校庭の掃除の最中、萩原の誘いに眉を顰める。
8月も中ごろに差し掛かり、ゆっくりと日が短くなってきていた。降谷は箒を掃く手を止めずに、きっぱりと答える。

「いや、僕は遠慮するよ…松田かヒロを誘ってくれ」
「さっすがゼロ。好きな子いる身で、合コンは来れないって?」
「………分かっているなら、」
「それがなあ、なまえちゃんが来るんだよ」

ぴたり、手が止まる。
彼女は、そういった場にすすんで来るタイプではないように思えた。いや、そう思いたかっただけかもしれない。困惑して黙った降谷に、萩原が困った顔で続ける。

「他の教場の奴に、なまえちゃん紹介してくれって頼まれちゃって。借りがあるから断れなくてさ…」
「は?」

思わず眉間に力が入り、地を這うような低い声が出た。
萩原が慌てた様子で降谷の肩に手を回す。

「そんな怖い顔すんなって!だから、俺とそいつとそいつの友達とゼロの四人で、どう?な?」
「絶対に行く」

まだ見ぬ恋敵への闘志を燻らせながら、噛み付くように即答すると、萩原は一瞬目を丸くしたあと、にやりと笑った。

「ほどほどにな」





乾杯!という萩原の合図で、8つのグラスが音を鳴らす。
簡単な自己紹介をして、当たり前のように警察学校の授業の話で盛り上がる。生徒同士で顔を合わせると、もはや男女の出会いの場というより、愚痴大会のようになるのはお決まりの光景だった。
その流れを断ち切ったのは、なまえに気があるという男だった。
席替えしようぜ、と慣れたように言い、当たり前のようになまえの隣に座る。

「みょうじさん、剣道ほんと凄いよな」
「ありがとう」
「ずっと全国優勝だったんだって?」
「まあ、うん…高校の間は」

へへ、と笑うなまえは、酒のせいか少し頬が赤い。無防備な顔に苛立ちながらも、すぐに割って入るほど降谷は子供ではなかった。

「(でも、あきらかに口説く距離だろ…なまえも気付かないのか?)」

肩が触れるほどの距離に座り、テーブルに肘をついてなまえの顔を覗き込むように話す男は、誰がどう見てもそういう顔をしている。
降谷は、向いに座るその男の足を踏みつけるか一瞬悩んだ。

「そういえば、みょうじさん、ここのところ毎晩剣道場で練習してなかった?最近はやめたの?」
「…うん、あんまり必要じゃなくなったから」

なまえがふわりと微笑む。そんな可愛い顔をしないでくれ、と言いたくなったとき、彼女の瞳がこちらを向いた。いつもより少し力のない瞳が、降谷を見てさらに柔らかく緩む。その愛らしさにどきりとして、慌ててビールを流し込んだ。なまえがふふふと笑う。

「降谷くん、お酒強いの?」
「どうだろう、普通じゃないかな」

彼女が隣の男より自分に興味を持ってくれたことが嬉しくて、面白くもない返答をしてしまう。そっかあ、と緩い声。彼女のカルピスサワーのグラスはほとんど空だった。何杯目だったろうか、と記憶を数える。

「なまえ、無理して飲まなくていいよ」
「……無理してないよ」
「ほら、水も同じだけ飲まなきゃだめだろ」

テーブルに身を乗り上げて、彼女の手からグラスを奪うと、代わりにたっぷりの水を渡す。少し不満げな顔をしたなまえだったが、おとなしく水を口に運んだ。
その様子をじっと眺めていた隣の男が、なまえとの距離を詰めたまま、おかしそうに笑った。まるで彼氏かのように、彼女の方に体を開いて、どっしり居座っているのが腹立たしい。

「降谷、母親みたいだな」
「……はあ?」
「いいじゃん、みょうじさん。好きなように飲みなよ。俺がちゃんと送ってあげるからさ」

ね?と顔を覗き込みながら、にやにやと笑う男が、ふいになまえの髪に指先を通した。降谷は咄嗟に、テーブルの上のグラスに手をひっかける。

「……悪い!」

倒れたグラスから水が盛大にテーブルの上に広がり、男の方に流れていく。男は慌てて立ち上がり、なまえが咄嗟におしぼりで机の上を押さえた。

「悪かった。僕が片付けるから、君は僕の席にどうぞ」
「私も一緒にやるよ」

男は居心地が悪そうに立ち往生したあと、「トイレ行ってくるわ」とそのまま席を立った。男が行ったのをちらりと確認してから、なまえがひっそりと降谷の耳元で囁いた。

「……助けてくれてありがと」
「……ああいうのは、はっきり拒否しないと」
「うーん、でも、萩の友達だし…」

なまえが困った顔をする。本当にそう思って悩んでいるようだった。そんなの冷たくあしらえばいいんだ、と切り捨てたかったが、彼女の優しいところを否定できない。
彼女はしばらく悩んだあと、降谷の顔を見た。言ってもいいのか少し悩む素振りの後、もう一度降谷の耳元に唇を寄せる。温かい息が耳元を掠めて、つま先が疼いた。

「降谷くん、ずっと隣にいてくれる…?」

柔らかな声に、思わずぱっと身をそらす。なまえの頬はさっきよりもピンク色で、酒のせいか少し潤んだ瞳が、窺うようにこちらを見上げる。距離が近くなったからか、彼女がこんなにも酔っていることにはじめて気がつく。いつもの真っ直ぐとした眼差しも好きだけれど、とろんとした甘やかな瞳から視線を逸らせない。心臓が耳のすぐ近くにまで移動したみたいだった。自分も相当酔っているのかもしれない。

「……ああ」
「ありがとう」

安心したように笑うなまえを、もう誰にも見せたくないと思った。
自分だけのものにしたい。他の男にその顔を向けさせたくない。もうどうしたって、燻る独占欲が、耐えられない。




「……どうしたんだよ」

二軒目へと移動する途中で、萩原が少し離れて歩く降谷となまえにそっと近付いた。前を歩く5人に悟られないようにとの配慮か、ボリュームを落とした声で続ける。

「なんでなまえちゃん、そんな酔ってんの?」
「んー…酔ってないよお、萩」
「いやいや。いつもはきっちりセーブしてるじゃん。どうしたのよ?ゼロ、何した?」
「なっ、なにもしてない」
「番犬みたいに、なまえちゃんの横きっちり死守してたのに?」
「それは私が頼んだの」

なまえがむっとした顔で唇を尖らせる。ふらりと足元が覚束ない彼女の腰を、降谷が咄嗟に支える。へへ、と笑ったあとに彼女は降谷のジャケットをきゅっとつまんだ。

「ふーーん……」

意味ありげな顔でにやにやとした萩原が、さらに声をひそめる。

「なまえちゃん寮まで送ってやってよ。みんなには上手く言っとくから」
「……いいのか?」
「紹介する義理は果たしたからな。付き合わせて悪かったよ。なまえちゃん頼むわ」

なまえを見ると、今すぐにでも寝てしまいそうにぼんやりとしている。無防備な彼女を、これ以上この場に留めたくなかった。萩原の配慮を断る理由が何もない。

「……でも、送り狼はだめだぜ?」

こっそりと耳元で囁いた萩原をじとりと睨みつける。お前も結構酔ってるだろ、と指摘すれば、彼はからからと楽しそうに笑ったのだった。




「なまえ」

ぽてぽてと隣を歩く彼女に声をかけると、なあに、というふんわりとした返答が返ってくる。 
「危ないからこっち、」

言ったそばから、彼女が躓いて転びそうになり、咄嗟に手を掴む。柔らかくて小さい手は、びっくりするほど熱かった。

「(…こんな簡単に折れそうな手なのに、剣道であの威力を出せるのか)」

降谷は思わず形を確かめるように握った。
すると、その小さな手が応えるようにぎゅっと握り返してくる。思わず彼女を見るが、俯いていて表情は分からない。ぐるぐると回る頭は何も答えを導き出してはくれず、結局のところ自分も酔っているのだと結論付けた。暖かい手を、今度は繋ぐことを目的として、しっかりと握りしめる。

「……なまえ、ちょっとだけ、公園で休んでいかないか?」

こんなに酔った状態を教官に見られるのもまずいし、と適当な理由を付け加える。
本当は、ただもう少し二人でいたいだけだった。
頷いた彼女の手を引いて、木製のベンチに並んで腰掛ける。手を離すのは惜しかったが、すぐ近くにあった自販機で水を買って手渡すと、まだ頬の赤い彼女が、眠たそうな眼でふんわりと微笑んだ。

「(ずっと、かわいい)」

そればかりが頭を支配して、ちょうどいい話題が見つからない。
周りを囲む木々のどこかで、蝉が一定のリズムで鳴いているのを、ただじっと聞いていると、なまえがぽつりと呟いた。

「…………降谷くん、今日はごめんね」
「…え?」
「せっかくの合コンだったのに、私、降谷くんを引き止めちゃって……」

しゅんと伏せられた睫毛が揺れる。

「いや、僕は…出会いを求めて来たわけじゃないから」
「……じゃあ、なんで来たの?」
「………」

普段の降谷だったら、適当に誤魔化したのだろう。人数合わせでとか、周りが都合がつかなかったからとか、いくらでも言い訳はある。
けれど、酒で回らない頭と、こちらを見上げるなまえのきらめく瞳に、いつもは押さえつける無垢な欲があらわになってしまった。

自分の気持ちを知ってほしいという、欲が。

「……君の、番犬」
「わたしの…番犬?」
「ほら……ゴールデンレトリバーみたいだって、君が言ったんだろ」

咄嗟に浮かんだ、萩原が使った"番犬"という言葉。たしかにぴったりだと思ったが、なまえのまんまるとした瞳に、思わず苦し紛れの言い訳を付け加える。彼女はしばらくきょとんとした後、ふふふ、と頬を緩めて肩を揺らした。

「あはは、頼もしい番犬だね」
「…だろ?学年主席の番犬なんて、贅沢だ」
「自分で言っちゃう?」

ころころといつもより楽しそうに笑うなまえは、やっぱりまだ酔っているみたいだった。

「降谷くんが守ってくれるなら、安心だなあ」

可愛らしく微笑む彼女が、自分のことをどう思っているのか確かめたい気持ちが、突然湧き上がってくる。この想いを伝えて、自分だけのものにしてしまいたい。いますぐに。

「(酒を飲んで告白なんて、最低だろ…)」

降谷は残っている理性で、ぐっと唇を噛んだ。
もう後に引く気はない。自分に余裕がないのも分かっている。それでも、かっこ悪く思われるのだけは嫌だった。

また訪れた静寂を、さわさわと木々が揺れる音が埋める。暑さの和らいだ風が、まだ緑色の葉をいくつか落とした。秋が、もうすぐそこまで迫っている。卒業の秋が。


「…あのね、聞きたかったことがあるんだけど…」

静寂を破ったのは、控えめななまえの声だった。背もたれに体を預けて、ペットボトルを両手で握り、ぼんやりとした目で降谷を見上げる。

「降谷くんが探してる女医さん……は、降谷くんの、その……好きなひとなの?」

思ってもみなかった質問に、降谷は一瞬思考を停止した。不安そうに瞳を伏せる彼女が、儚げに見えて、思わず吸い寄せられるように手を伸ばした。
他の男が触れてたまらなく憎くなった黒髪は、柔らかくて、出来ることならずっと触れていたくなる。撫でるように指を通しても、彼女は嫌がる様子もなく気持ちよさそうに目を細めるから、喉がぎゅっと詰まった。

「ちがうよ」

だって、僕が好きなのは、君だから。

そう言いたい気持ちをぐっと堪えて、それでもその気持ちが伝わってほしいと思いを込めて、降谷は彼女の頬に触れた。とびきりに熱い滑らかな肌に、胸の奥の方が痺れるように疼く。目の前がぐらぐらとした。もっと、触れたい。

なまえは「よかった」とぼんやりと呟いて、降谷の手に擦り寄るように、そっと目を閉じた。

「……じゃあ、わたし、頑張ってもいい…?」

消えいるような小さな声は、確かに降谷の耳に届いた。さあ、と大きな風が二人の間を通って、降谷はゆっくりと触れていた手を下ろす。

「……それ、どういう意味……」
「………」
「………なまえ?」

顔を覗き込むと、彼女の美しい瞳はしっかりと閉じられて、力の抜けた唇からゆったりとした息が漏れていた。

「……寝てる」

降谷はもう一度、柔らかい頬に触れた。輪郭を確かめるように、ゆっくりと親指の付け根で包む。顔にかかっていた黒髪を耳にかけてやると、差し込んだ月の光に、長い睫毛がきらめいているのがよく見えるようになった。

ファミレスで向かい合ったときから、ずっと触れたいと思っていた唇に、そっと親指を当てた。しっとりとしていて、想像していたよりずっと柔らかい感触に、頭が焼き切れそうになる。
もう、どうにも、無理だ。

「………なまえ、」

彼女の言葉の意味を必死に考えたいのに、溢れ出す愛しさが邪魔をして、何も考えられない。

降谷は、なまえに覆い被さるようにベンチに手をついた。ぎしりという古い木の音は無視して、柔らかな頬を少し持ち上げる。
頭の片隅にいる冷静な自分が、警告を出しているのは分かっていた。それを無視するのは、酒のせいとはもう言い切れない。

「…なまえ、好きだ」

重ねた唇は驚くほどに柔らかくて、このまま時間が永遠に止まればいいとさえ思えるほど、特別なものに感じた。痺れるような身体中を支配する幸福感と、胸の片隅からじわじわと広がる罪悪感に、降谷は思わず少し泣きたくなった。

一方的に押し付ける好意ほど、惨めで醜くてかっこ悪いものはない。分かっている。分かってはいるのに、降谷はキスをしてしまった。


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