剣道場が好きだ。

年月を重ねた木々の匂いに、ところどころ擦り減った畳。重たい防具でさえ、なまえにとっては自分を守る鎧のように感じられる。警察学校の剣道場は、改装されたばかりだった大学のそれとは違い、高校時代の剣道場によく似ていた。開け放った窓から、昼間の熱がまだ少し残る夜の空気が入り込む。なまえは深く息を吸い込み、使い古された竹刀を握った。

剣道をはじめた小学生の頃から、剣道場はなまえにとっての避難場所だった。

「(……56、57、58…)」

ひたすら、素振りの回数を数えるだけ。
積み重ねる数字の他に、何も考える必要のない状況は、なまえにとって唯一の逃げ道だった。無理に笑顔を浮かべる必要もなければ、いい人をとり繕うことも、誰かを優しく気遣う必要もない。本当の表情を面の下に隠していられる剣道が、なまえは心の底から好きだった。

もうすぐ100というところで、突然、剣道場の重たい扉が開いた。驚いて手を止めると、面の隙間から、蛍光灯の明かりに照らされた金色の髪が見えた。

「……降谷くん」

なまえはいつも、彼の髪を陽の光に煌めく小麦畑のようだと思う。コンビニのバックヤードで、ふわふわと揺れるその髪にはじめて触れた時の、彼のあの表情がずっと忘れられない。

「……なまえ」

彼がはじめて下の名前で呼んでくれたとき、とても動揺したのを、取り繕うのに必死だった。

「どうしたの?こんな時間に」
「なまえこそ、どうしたんだ?」
「昼間の練習ちょっと足りなかったから、自主練!実は教官から鍵貰ってるんだよね」

努めて明るい声を出す。面の下の表情は、彼からは見えないことが救いだった。
降谷が靴を脱いで、畳に上がる。なまえは何故かひどく動揺して、咄嗟に「わたしいま臭いから近寄らないで」と言った。

「………何を今さら」
「だ、だよね」
「………」

ここのところ、彼が気遣わしげになまえのことを見ていたのを、本当は気付いていた。だから余計に明るく振る舞わなければと思った。優しい彼のことを煩わせる自分が許せなくなりそうだったのだ。

降谷はゆっくりとなまえの前に歩み寄ると、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
緊張が伝染して、なまえは降ろしている竹刀にきゅっと力を込めた。
触れないで欲しかった。
彼も他の人と同じで、自分を通り過ぎる大勢の一部であって欲しい。そうしてくれたら、愚かな期待に諦めがつく。

「…………アイス」
「………え?」
「…アイス、買いに行かないか?」

降谷がこぼした言葉は、まったくの予想外のもので、なまえはぽかんとした。
返答出来ずにいると、彼は肩をすくめて誤魔化すように笑った。

「付き合ってくれ」

なまえが困惑したまま頷くと、彼は安心したように微笑んだ。





自販機の明かりに照らされた降谷の横顔を、なまえはそっと見上げた。
降谷がコンビニで買ってくれたアイスが、彼の持つ袋の中でカシャカシャと音を立てる。それ以外には、蝉の音が鳴ったり止んだりするだけで、特に会話もなく、ゆったりとした足取りで学校への道を戻る。
ひっそりとした真夏の空気を肺いっぱいに吸い込むと、なんだか少し、閉塞感から解放された気持ちになった。おかしな話だ。自分から防具の下に閉じこもっておいて、窮屈に感じているなんて。

遠くに土の匂いがして、もしかしたら明日は雨が降るのかもしれない。

「帰るまでに溶けるな。食べながら歩こうか」

降谷が笑う。内緒でいけないことをするようなその笑い方は、出会った当初はしなかったから、もしかしたら松田の影響なのかもしれない。なまえは手渡されたバニラ味のバーアイスの封を切った。

「あ、ほんと、ちょっと溶けかけ」
「うわ、まいったな」

降谷が慌てた様子でソーダアイスを口に運ぶ。
彼の手の中のポップなパッケージが目について、綺麗な顔との不釣り合いさに思わず笑いが込み上げてきた。

「降谷くんがガリガリ君食べてる」
「……なんだよ」
「ううん、なんだかかわいくて」

降谷はちょっとムッとしたように唇を尖らせるが、なまえにはそれが彼の照れ隠しの表情だということが分かってきていた。

「また君はすぐ、そうやって…」
「ええ、だめ?」
「そうじゃないが…」

彼にバツの悪い顔をさせるのは、楽しかった。自分の言葉で、クールな優等生の表情が、少年のようなあどけなさを帯びるのを見ると胸が弾む。彼が塗り固めた仮面の下を、少しでも覗かせてくれるのがたまらなく嬉しかった。

彼がそっぽを向いて、自然と会話が終わる。本当に怒っているわけじゃないことは雰囲気で分かるから、なまえは黙々とアイスを頬張った。冷えていく体と、生温かい空気が溶け合っていくのが心地いい。あっという間になくなったアイスに、唐突に夏の終わりを考えて、なんだか少し感傷的になった。

「もし、聞かれたくなかったら、そう言ってほしいんだけれど…」

食べ終わるのを見計らったように、降谷がぽつりと呟く。
顔を上げると、困ったように眉を寄せた彼が、なまえのほうを見ずに言葉を続けた。

「なまえの友達、辞めたんだな」

なまえは一瞬、動きをとめた。ごくりと唾を飲み込み、乾きそうだった喉を潤す。質問自体は、あの日から、いろんな人に何度も聞かれたことだったから、今更だった。

「…うん。やっぱり、ちょっとキツかったみたい」
「そうか…辞めたくなるのも、よく分かるよ」
「すごく頑張り屋な子だったから、それで余計に苦しかったのかも」

この話題の反応は大抵二つだった。
一つは辞めた彼女への心配や同情。もう一つは苛立ちや嫌悪。どちらもなまえには理解できる。辛くても耐えている人から見れば、逃げにも捉えられるのは仕方がない。けれど、そんなの個人の勝手だろうとなまえは思っていた。友人が悩んだ末の答えを、彼女自身の人生の選択を、他人にとやかく言われる筋合いはない。
だから、降谷が前者の反応を示してくれて、少しほっとしていた。

「……大丈夫か?」
「うん。あの子も納得してたし、辞める時は元気な顔してたから、大丈夫だと思う」
「……なまえは班長だから、色々大変だろう」
「そうだね…班の雰囲気も、最初は暗かったけど、最近は元通りになってきてるよ」

一歩先を歩いていた降谷が、ぴたりと足を止めた。
ずっとなまえのほうを見なかった彼が、ぱっと振り向く。街灯に照らされた彼の顔は、なぜか少し傷ついたような表情をしていて、なまえは思わず息を呑む。その顔の理由が分からなかった。「そうじゃない」と絞り出すような彼の声。

「君のことを、聞いてるんだ。なまえ」
「………わたし?」
「ああ」

綺麗な海のような降谷の瞳が、まっすぐになまえを見つめる。なまえはたっぷりと言葉を咀嚼してから、瞬きをした。何かを言おうと口を開いて、閉じる。何も出てこない。

「僕は、君の心配をしてるんだよ」

言い聞かせるように、もう一度彼が言う。
口調は強くなかったが、叱られているようでもあった。その張り付いた仮面を取れ、適当にはぐらかすのはやめろと。

「……私?私は大丈夫だよ…」

口角を意識して上げてみるが、驚くほど声が掠れた。
いますぐ、あの古い畳のにおいの中に逃げ込みたかった。防具を身に纏って、面で顔を覆いたい。金色の眩しい彼は、面の狭い隙間から見ているだけでいい。

どうして彼の前では、いつもみたいに出来ないのだろう。大丈夫、なんていくらでも口にしてきた言葉なのに、彼の目を見て言う勇気がない。

「……」

なまえは何も言えず、自分のつま先を見た。
降谷が焦っていくのがなんとなく分かって、さらに居た堪れなくなる。気遣ってくれてありがとう、大丈夫。と頭の中で言葉を何度も反芻するのに、どうしてもそれが喉を通過しない。

本当は、理由が分かっていた。
彼に嘘をついて、嫌われたくないのだ。

「……悪かった。怒ってるわけじゃないんだ」

困ったようにそう言った後、大きな手がなまえの頭を遠慮がちに撫でる。はじめて触れた彼の手は、びっくりするほど熱かった。

「なまえは、そのままでいいよ。君の強くて優しいところが、僕は好きだから」

ひどく優しい声だった。
こんなふうに大切に触れてもらえるような自分じゃない、と思う。それと同時に、この温かい手が離れないで欲しいとも思った。
目の奥がきゅっと熱くなって、顔を上げられない。彼が緊張したように、細く息を吸ったのが分かった。

「でも、僕が君を一人にしたくない。もし君が辛くなった時には、弱音を吐ける相手になりたいんだ」

君が嫌でなければ。
彼にしては少し弱気な声に、胸が痛んだ。

なまえは昔、同じようなことを松田から言われたことがある。
"もっと俺のことを頼れよ"と。
とても嬉しかった。心の底から嬉しかったのだが、同時に虚しさもあった。
彼の優しさは確かなものだったけれど、これまでの自分の努力と苦労を、必要のなかったものだと言われたような気がしてしまった。そうして、そう思ってしまった自分のことが、大嫌いになった。

「……でも、私、人にうまく頼れない、意地っ張りな奴だから…」
「僕だって同じだよ。いつもヒロから"一人で抱え込むな"って言われる。でも…それは全部が悪いことじゃないだろう?」
「……え?」
「人に頼らずに生きられるように、必死に努力してきたことは無駄なんかじゃない。努力できることはかっこいいって、君が言ったんじゃないか」

思わず顔を上げると、降谷の手がそっと離れる。
見上げた彼は、目を細めて微笑んでいた。


夜に静かに輝く、満月のようだと思った。
たとえ自分がどこか遠くに行っても、空を見上げれば同じ場所で儚く輝き続けている月。

ああ、そうだ。と、突然すとんと全てが腑に落ちる。
いつのまにかなまえにとって、彼はそういう存在になっていたのだ。


「君のかっこいいところが好きだよ。だから、僕に君のこと、心配させて」


彼の艶やかな黄金色の髪が、夏の風にふわりと揺れる。シャンプーの爽やかな匂いがかすめて、なんだかとても泣きたくなった。
なまえはきゅっと唇を噛んだ。涙は耐えられる。でも、声が震えるのは耐えられなかった。

「……ありがとう」

白いTシャツに、額を寄せる。
びくりと大きく肩を揺らした彼は、少ししたあと、ゆっくりとなまえの背中をさすった。

薄くかかっていた雲が過ぎて、満月の手前の月が、静かに二人の影を照らしていた。


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