「そういえば、みょうじさんの班の子が辞めたんだってね」
諸伏のその言葉に、降谷は思わず頭を上げた。しっかりと泡立ったシャンプーが飛び散り、目に入りそうになる。手の甲で目元を拭い、しばらくそのまま思案したあと、「そうか」とだけ答えて、シャワーの蛇口を捻った。熱めのお湯を頭からかぶりながら、なまえのことを思い浮かべる。今朝、食堂で顔を合わしたときは、いつも通りの笑顔だった。
「いつ辞めたんだ?」
「5日前くらいって聞いたけど」
「………」
その5日の間、剣道の練習だってあったし二人で勉強もしている。「聞いてなかったんだね」と悪気のない諸伏の言葉がチクリと刺さった。
「暑くなってきて、実地研修も始まって、さらに厳しくなってきたもんね」
仕方ない、と諸伏が困ったように微笑む。実際、すでに同期の中からは数人辞職者が出ていた。どれだけ覚悟の上警察官になろうとしていても、適性がない者や別の道を選ぶ者はいる。それは仕方のないことだと降谷も思っている。大人なのだから、自分の道は自分で決めるべきだと。
去る方は、おそらくたくさん考えて自分でケリをつけた結果なのだろう。
だが、残された側はどうなのか。
「……なまえ、いつも通りだったよな」
「うん、そうだね」
「僕だったら、誰かが欠けたら……」
その先は言わなかった。
同じ班のメンバーのうち、誰かが辞めるだなんて、降谷には想像もつかない。
出会って数ヶ月ではあるが、親友のように兄弟のように、もはや降谷の人生において欠かせない存在になっている彼等。誰かがここを去ると言ったら、自分はどんな手を使ってでも引き留めてしまうかもしれない。引き留められなかったら、今のように笑える気がしなかった。
同じようなことを考えているのか、諸伏も黙ったまま湯に浸かった。ざぶりと揺れる水面に浮き上がった細かな気泡は一瞬で弾けた。
「別れのときって、きっと呆気ないんだろうね」
諸伏がぽつりと呟いた言葉には、どこかうら悲しさが滲んでいた。"そんなこと言うなよ"と降谷は言いかけて、飲み込んだ。そうかもしれない、と思ってしまった。
◇
数日後、久方ぶりの教場合同の術科訓練で、降谷はなまえとペアで竹刀を向き合わせていた。
「あっついねー!」
面をとったなまえが、眉を下げて笑った。
玉のような汗が上気した頬を滑る。いつものように風呂上がりさながらにタオルでそれを拭き、彼女は目をキラキラとさせた。
「降谷くん、ほんとびっくりするくらい上手くなってるよね」
「そうか?」
「うん。やっぱり降谷くんとやる剣道たのしい」
にこにこと、健康的になまえは笑う。
その真っ直ぐな言葉に、降谷は曖昧に微笑んで返す。
彼女の仲間が辞めたことを、話題に出来ずにいた。大丈夫かとただ気遣いたいだけなのに、彼女の笑顔を前にするとそれが憚られる。まるでまったくいつも通りの様子に、話題に出すのは無粋なのではないかと思えてきて。
それほどまでにその振る舞いは、"完璧"だった。
「降谷くん、こないだの実地研修どうだった?」
「ああ、なんか…警察官になるんだなって実感が湧いたな」
「わかる!やっぱり制服着て交番勤務ってカッコイイよね」
ワクワクとした顔で笑う彼女に、降谷は首を傾げた。真面目ななまえの感想としては、少し意外だった。
「そういえば、なまえは、なんで警察官になろうと思ったんだ?」
なまえは防具を片付ける手をぴたりと止める。なんとなしに聞いたよくある質問だったが、彼女はうーんと唸って眉を下げた。
「……あんまり立派な理由じゃないんだけど」
「いいよ、聞かせてくれ」
「……あのね、小学生の時、剣道教室で教えてくれてたお兄さんが警察官だったの。その人に、憧れて」
しょうもないでしょ、となまえは照れたように笑う。その表情を見て、カッコイイと目を輝かせた彼女に合点がいった。彼女の中の理想の警察官像には、しっかりと顔と名前があるのだ。
降谷は、もやりと陰った自分の心に呆れた。好きな人の憧れの先が、別の男にあるということが面白くなかった。自分だって同じようなものなのに。
「降谷くんの理由は知ってるよ。行方不明になった年上の女医さんを探してるんでしょ?」
「な………」
ふふ、と悪戯っぽく笑うなまえに、降谷は言葉を失った。今まさに"あの人"のことを思い浮かべていたから、心を見透かされたようにドキリとする。
なまえには、言うつもりがなかったことだ。正確には、自分の口から折りを見て言うつもりだった。松田のように「案外チャラい」と思われたり、勘違いをされたりしたら、たまらない。
「いや、それは…」
「降谷くんの大切な人なんでしょう?」
しかしなまえは、揶揄う様子は一切なく、真っ直ぐな瞳に柔らかい微笑みを浮かべた。
「きっと、見つかるよ」
ああ、そうだ。この笑顔だ。
はじめて彼女に剣道で負けた時、朝一番に咲く花のようなこの微笑みに、あっさりと恋に落ちたのだった。
「……なまえ、僕、」
「なまえー!ちょっとこっち手伝ってー!」
彼女を呼ぶ声に反応して、くるりと背中を向けたなまえに、伸ばした手が宙を切る。
そのままこちらを振り返らず、彼女は手を振っている友人に慌てた様子で駆け寄っていった。
「(……いま、何を言おうとしたんだ)」
心臓の音が鼓膜のすぐ近くでうるさかった。
自問しながらも、その答えは自分自身でよく分かっていた。
"別れの時って、きっと呆気ないんだろうね"
諸伏の言葉を、頭の中で反芻する。
そうだ、もう、あと3ヶ月もたたないうちに卒業を迎えてしまう。卒業後はそれぞれの憧れや願いに向かって、おそらく違う道を歩むのだろう。
もしこの恋が実らなかったとき、この気持ちは、勝手に泡となって消えてくれるのだろうか。
もう、こんなにも、扱えないほど大きくなってしまっているのに。
◇
夜も更け、灯りが少なくなった校内で、降谷は自販機に向かっていた。
就寝時間までまだたっぷりと時間はあるが、自室で勉強をする気にはならなかった。なんだかどうしても心がざわついて落ち着かなく、普段あまり飲まない炭酸系のジュースが無性に飲みたくなった。何が置いてあったか、と思案しながら曲がり角を曲がる。自販機にいた先客に、思わず「あ」と声を漏らす。松田が面を持ち上げ、気だるげに手を上げた。
「なんだゼロ、めずらしーな」
降谷がコーラのボタンを押すと、松田がにやりと笑った。
「そうだ、松田。僕のこと、勝手になまえに話しただろ」
「あ?どれのことだよ?」
「どれって……」
思い当たることが複数あるということに、降谷は思わず額を抑えてため息をついた。松田はあっけらかんとして、アイスコーヒーを口に運ぶ。寝れなくなるぞ、という小言は飲み込んだ。松田が窓を開けると、生ぬるい風が彼のくせ毛を揺らす。しばらく風にあたるように暗闇のほうをじっと見つめた後、ため息をつきながら窓枠に背中をあずけた。降谷もそれに並んでコーラの蓋を捻る。
「……ゼロ、オメーさ」
ぽつり、と松田が呟く。続きを待っていると、「や、なんでもねえ」と彼にしては珍しく歯切れの悪い言葉が続いた。
「なんだよ」
「……なまえから、なんか聞いてっか?」
何かってなんだ、と聞き返そうと松田の顔を見て、口を閉じた。きゅっと眉間に皺を寄せて目を伏せるその表情で、彼がなまえのことを心配しているのがすぐに見てとれた。
「いいや、なにも」
「はー……アイツってほんっと馬鹿だよな」
窓枠にもたれかかって、ため息と共に空を見上げる。つられて見上げると、思いの外星がよく見えた。
しばらくそのまま黙ったあと、「アイツさあ」と松田が続ける。いつも瞬発的に会話をする彼にしては、本当に珍しく言葉を選んでいるように思えた。
「学級委員タイプだろ?お節介っつーか、貧乏くじ引きがちっつーか……他人のために尽くして、自分のこと後回しにして当たり前だって、周りから思われてんだよ」
ムカつくんだよな。
それがなまえに対してなのか、周りに対してなのか、降谷には両方に言っているように感じられた。
「まあ…わかる気がする。なまえなら、クラスで誰もやりたがらない委員に、自分から手を挙げそうだ」
「それ!んで、みんななまえがやって当たり前だって顔してんだ。まあ、なまえも涼しい顔してこなしちまうから、いけねーんだけどよ」
松田となまえは高校時代同じクラスだったと言っていた。顔を顰める彼は、そんな彼女の"貧乏くじ"をずっと見てきたのだろう。
「アイツ、人に頼るってことを知らねえんだよ。頼らせてくれるヤツがいなかったから」
やって当たり前、できて当たり前。
苦労も努力も、周りから評価されることはない。
大抵のことが出来てしまうから、誰も自分のことを心配したりしない。
「(………それって、まるで、)」
「……なんかよ、お前となまえって、似てると思わねえ?」
松田の言葉に、はっとして顔を上げる。
彼はこちらを見てはいなかった。遠くで輝く星を見上げたまま「どこが似てるって、上手く言えねえけど」と笑った。それは、降谷が考えていたことと同じだった。
彼女の言葉に救われた気がしたのは、彼女が同じ痛みを知っていたからだって、なぜ考えもしなかったのだろう。
「なんつーか、ゼロといる時のあいつは、安心してるみたいに見えるんだよな。ゼロには頼っていいんだって思ってるかんじがする」
「……そうか?」
「ま、俺にはわかんねえけどよ」
松田があっけらかんと笑う。なまえが松田に心を許している理由が、理解できた気がした。松田はなまえを正しく認識しているのだ。優等生バイアスのかかった姿ではなく、みょうじ なまえという一人の人間として。
おそらく自分にとっての諸伏が、彼女にとっての松田なのだ。かけがえのない理解者。そう気付くと、ちっぽけなことで嫉妬ばかりしていた自分が、しょうもなく思えた。
「……けど、実際頼られてないさ。仲間が辞めて、班長として責任を感じてるんじゃないかって心配なのに、僕には何も話してくれない」
「お前、なまえの頑固さナメんなよ。泣き言なんて、多分一生言わないぜ」
「………」
反論の余地はなかった。その通りだ。
彼女は入学してから一度も、あの地獄のような重装備訓練だって、「無理」「できない」という言葉を使ったことがない。
おそろしく忍耐があって、おそろしく負けず嫌い。そのくせ繊細な優しさと太陽のような明るさを持った不思議な人。
それが降谷が好きになった、なまえだった。
松田が空になった缶を、ゴミ箱に投げ入れる。
カランと音をたてて収まったのを見届けて、窓から体を起こすとぐっと背伸びをした。
「ま、"お前のことが心配だ!"って、真っ直ぐ言ってやりゃあいいんだよ」
「……松田は言わないのか?」
「は?なんで俺が」
「……好きなのかと思ってた」
なまえのこと。
そう言うと、松田は目を丸くして動きを止めた。
ずっと気になっていて、ずっと聞けなかった言葉が、不思議なほどするりと降谷の口からこぼれ落ちた。その返答がどちらだとしても、今なら納得できる気がしたのだ。
松田はしばらく黙ったあと、そうだなあと悪戯っぽく笑った。肯定とも否定ともとれないその表情は、普段の彼から結びつかないほど大人びて見えた。
「俺には、本当に辛い時に頼ってきたことねえんだよ、あのバカ」
「………」
「まあ、たとえゼロでも、なまえのこと傷付けたら許さねえけどな」
ニッと笑った松田が、降谷の背中を思い切り叩いた。飲みかけのコーラが泡を立て、慌ててキャップを閉める。突然なんだよ、と声をあげようとしたが、松田が指差す窓の外を目で追って、はっと言葉を呑んだ。
誰もいないはずの剣道場に、ぽつりと灯りがともっていた。
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