20
「宮台なつみさんが犯人だったんだ…」
救護隊から支給されたタオルを身体に巻き付けたコナンの小さな背中をさする。真夏といえど、ずぶ濡れのままでは気持ちが悪いだろう。
園子が替えの衣類を用意してくれている間、ゆいなはコナンと二人で、広場の隅に座っていた。コナンから聞かされた事件の真相に、憤りと虚しさが入り混じった気持ちになる。
2枚のひまわりを贋作だと決めつけ、自分の信念に従った宮台なつみ。たくさんの人の命を脅かし、キッドを悪者にしたのは許せなかったが、"ただの絵のためだけに"と簡単には言い切れないとゆいなは思っていた。
絵画には誰かの人生を曲げる力も、救う力もある。一連の騒動でそれを痛感していた。
ゆいなは、絵画と人の命どちらを取るかを聞かれたら、人の命を選択するだろう。宮台なつみはそうではなかった、ただそれだけだ。
"価値"というのは、平等じゃない。
「東さんも、ひまわりのことで揉めなければ、お兄さんを撃ってしまうこともなかったんだよね…」
ゆいなの呟きに、コナンは小さく「そうだな」と返した。
緑の山並みを滑るように、鳶が高く鳴いた。青く澄み切った空を見上げて、ゆいなはゆっくりと息を吐いた。
張り詰めていたものが、風船から少しずつ空気を抜くように緩んでいく。少し前まで、息ができないくらいの恐怖にかられていたのが嘘みたいに、穏やかな空だった。
ふと、聞きたかったことを思い出した。
「ねえ、美術館で、キッドと何を話したの?」
「何って?」
キッドの話題にあからさまに不機嫌そうに眉を顰めつつも、きちんと返事をするコナンに内心苦笑する。
「なんかね、新一に何かを宣言したって言うんだけど、教えてくれなくて」
「……はぁ?んなことオレに聞くなよな」
「なんで?新一に聞いてみろって言うんだもん」
「……アイツほんと性格わりーな」
「え、もしかしてなんか変なこと言ってた?…私のこととか…?」
脳裏に、快斗の隠し部屋でのことがひらめく。さっと頬に熱が集まって、慌てて顔を逸らした。快斗だったら話しかねない。ニヤニヤと笑いながら、こちらの様子を観察する様が目に浮かぶようだった。
「……なんだよ」
「ごめん、やっぱいい、なんでもない」
「なんだよそれ、思い当たることでもあんのか?」
「ない!ないけど、もういい、新一は全部忘れて」
むすっとした顔のコナンの頭を、誤魔化すようにタオルで無造作に掻き回した。されるがままにされつつも、唇を尖らせてゆるく首を振る。
嫌がる子犬のような反応に、ゆいなは思わずふはっと笑いをこぼした。タオルの隙間から目があって、コナンの眉尻がほっとしたように下がる。
「……やっと笑った」
「……あ」
コナンの小さな手が頬に触れる。びっくりするほど高い体温が、こびりついた不安を溶かしていくようだった。
「いつまでも暗い顔してっから、さ」
そこでようやく、合流してからずっと、コナンが隣に居てくれたことに気がついて、当たり前のようにその優しさを享受していた自分が恥ずかしくなった。彼は命懸けの場所から生還して、へとへとに疲れ切っているだろうに、ゆいなを気遣ってずっと側にいてくれたのだ。
指摘されてはじめて認識した顔の強張りが、解けていくようだった。
「がきんちょー!替えの服用意できたわよ!」
「園子姉ちゃん、ありがと!」
コナンがぱっと手を離し、立ち上がった。もう一度伺うようにこちらを見たので、ゆいなは微笑んだ。無理して浮かべたものではない、和らいだ笑顔だった。もう大丈夫、そう伝わるように。
はやく!と急かす園子の声に、コナンが慌てて走っていく。その後ろ姿に、ゆいなはもう一度「ありがと」と呟いた。
「あーーーあ、ほんっとアイツばっかいいとこ持っていきやがって」
突然後ろから聞こえた声に、ゆいなは飛び上がった。悲鳴をあげそうになったのを、なんとか飲み込んで、ベンチの背側を覗き込んだ。
「えっ!?かい……!」
草陰から顔を出した彼は、人差し指を唇に当てる。もうキッドの衣装は脱ぎ捨てていて、黒いTシャツに黒いキャップを被っている。周りに人がいないことを確認して、ゆいなはベンチの陰に回り、隣にしゃがみ込んだ。
ぶすっとした顔で、快斗はゆいなの頬をつねった。
「アイツといちゃいちゃしすぎ」
「し、してないよ」
「遠慮して、一人になるの待ってたのに」
「ずっといたの!?」
「さあねー」
教えてあげません、と快斗が唇を尖らせる。
ゆいなはまじまじとその顔を見た。さっきはコナンのことが心配で、でも快斗と蘭が無事に戻ってきてくれた安堵もあって、心が行ったり来たりでここにあらずだった。
かすり傷はあれど、大きな怪我もなさそうな彼の顔色に、ほっと息を吐いて、ゆいなは思わず抱きついた。
心臓の音を聞いて、ゆっくりと息を吐く。
快斗も次第に肩の力を抜いて、ゆいなの頭に顎を乗せた。
「オレにはゆいなしかいねーのに、ゆいなにはオレだけじゃないのってさあ…」
「え?なに?」
「……なんでもねーよ」
ぎゅう、と苦しいくらいに抱きしめられて、ゆいなは笑いをこぼした。
「ふふ、私にだって、快斗しかいないよ」
「…聞こえてんじゃん」
「ふふふ」
快斗の顎がぐりぐりと頭のてっぺんを押す。おらおら、とわざと荒っぽい口調で言いながら、快斗も堪えきれず笑っている。
身体を離して目が合うと、どちらからともなく唇を重ねた。
「……ずりぃ」
「…なにが?」
「ちゅーしたらもう、なんでも許しちゃうだろ」
「快斗、怒ってたの?」
「怒ってねーけどさあ」
怒ってないけど、と自分に言い聞かせるように繰り返して、快斗はもう一度背中に腕を回した。目を閉じて、身体を預ける。
「でも、よかった、ちゃんと帰ってきてくれて」
「……おう」
「快斗に何かあったら、どうしたらいいか分からないよ…私にも、快斗しかいないのに」
肌の温かさに泣きそうになった。
もう思い出したくもない、足元が崩れていくような、意識が遠のいていく感覚。背中がふるりと震える。
「……怖かった」
「…うん」
「もう離れないって、ずっと近くにいるって言ったくせに」
「うん、ごめん」
「ほんとに、すごく、怖かったんだから…」
快斗の手のひらが、ゆっくりと背中を撫でる。息を吸って、吐いて、込み上げるものをどうにか逃がそうとしたが、だめだった。震える喉に気付かれたくなくて、ゆいなは呼吸をなるべく浅くゆっくりにした。
「ごめんな。でも、ゆいなが待っててくれれば、オレは必ず帰ってくるから」
体の前側同士が、隙間なくぴったりとくっつくような抱擁だった。パズルのピースが噛み合うように、ここがあるべき場所であるように。
「オレの帰る場所でいて」
祈りのような言葉に、ゆいなはぐっと喉を詰まらせた。
勝手だ、と怒りたかった。
あと何度こんな思いをしなきゃいけないのか、問い詰めたい気持ちもあった。
それでも彼が、"帰る場所"に自分を選んでくれたことが嬉しくて、たまらなく愛しい。
だって、どれだけ怖くても、彼が近くにいない人生のほうが恐ろしかったから。
「……あんまり待たせてばっかりだったら、どっか行っちゃうからね」
「うっ……」
「わかった?」
「はい…」
しょげしょげ、という音が付きそうな快斗の顔を見て、ゆいなは笑った。頬をくっつけると、飛び跳ねた髪がくすぐったかった。頭の後ろを撫でて、抱きしめ直す。快斗はうーとかあーとか唸ったあと、大きく息を吐いた。
「はー、なんかほんと気が抜けない案件だったなあ」
「後藤さん、寺井さんの変装だったんだね。全然気付かなかった。長く潜入してたんだね」
「ほんとは、ジイちゃんに危険なことさせたくなかったんだけど…絶対に自分でやるって聞かなくてさ」
「……寺井さん、ウメノさんに会わなくていいのかな」
彼女がひまわりを見ることが出来たことは、管理室で確認ができただろう。
初恋の人と言っていた。会って、話をしなくて、いいのだろうか。
「そういう愛情も、あるんだろうな」
快斗が優しく微笑んだ。寺井のことを分かっている、そういう顔だった。
それから、にやっと表情を変える。
「ま、オレは無理だけど!毎日でも一緒にいたーい」
「快斗、くるしい」
「なあ、ゆいな、今夜はオレんちに…」
「ゆいな、どこー?園子が送ってくれるから帰ろー!」
蘭の声に、二人してびくりと身体をこわばらせる。ここで二人縮こまっているところを、蘭に見られるわけにはいかない。ゆいなが立ちあがろうとすると、大きな手が手首を掴んだ。
「……オレと帰るから無理って言ってきて」
「こら、わがまま」
「ずっとあの探偵に隣譲ってたんだから、いいだろー?」
いつになく不貞腐れた顔で甘えた声を出す。怖くて不安だったのは、彼も同じだったのかもしれないと思うと、絆されてしまいそうになる。
蘭の声が近づいてきて、隠れるように一度しゃがみ込んだ。
「あとで快斗の家に行くから、待ってて」
「…まじ?」
「たまには、快斗が私のこと待つのもいいでしょ?」
どこにも行っちゃだめだよ、と頬に一瞬だけキスをすると、快斗は耳を赤くして頷いた。
「あ、いた!どうしたの、そんなとこで」
「えっと…猫がいてね?」
快斗が身を引いたのと同時に、背後を隠すように立ち上がった。きょとんとする蘭に、曖昧に笑って返す。
「はやく帰ろっか」
さみしがりやの猫のために、はやめに帰ってあげよう。ただいまと言ってドアを開けたら、快斗は喜んでくれるだろうか。
(end)
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