19
灰原が見たキッドの翼は、展望台から少し離れた森の中に降り立ったという。
鬱蒼とした森に踏み込むと、しめった水の匂いがした。匂いに導かれるように開けた場所に出ると、湖面がキラキラと光を反射していて、思わず目を細める。
あっ、と園子が声をあげた。
「蘭、いた!おじさまこっち!」
辺りの木に、蘭が目を閉じてもたれかかっている。すぐに園子が駆け寄り、肩を揺らすと、彼女はゆっくりと目を開いて、太陽の光に眩しそうに目を瞬いた。
「蘭!よかった!無事!?」
「うん…新一が助けてくれたから」
「違うよ。蘭お姉さんを助けたの、キッドだよ!」
歩美の言葉に、ぼんやりとしていた蘭は、次第に状況を思い出したように表情をこわばらせていった。それからはっとして、周りを見回す。
「コナンくんは!?」
「蘭お姉さん一人だったけど…」
「うそ…!もしかして、まだ中に…」
蘭が蒼白な顔で立ち上がる。その緊迫した表情から状況を悟った子供達に、不安と緊張が走る。灰原がすぐに探偵バッヂで呼びかけるが、応答はない。たまらず泣き出す彼らの背中を、園子がそっと撫でる。
「(どうしよう…新一が行方不明なんて…)」
ゆいなは、誰もこちらに気が付かないことを確認しながらゆっくりと後退り、森の奥の暗がりへ分け入った。
快斗ならきっと状況が分かるはず。それに彼なら、人気のないところに蘭を置いていくはずがないから、まだ近くで見守っているだろう。
「……ゆいな」
居るだろうと分かっていたのに、思いの外近くでかけられた声に、ゆいなは驚きで肩を跳ね上げた。掴まれた右腕にバランスを崩すと、声を上げる前に身体を包み込むように抱きしめられる。ぎゅっと抱きしめ返すと、濡れた衣服がおどろくほど冷たかったが、ゆいなはかまわずに額を押し付けた。
「快斗、よかった…」
「ごめんな、心配かけた」
機械越しではない声に、熱いものが込み上げる。それをなんとか飲み込んで、ゆいなは顔を上げた。ほっとして泣いている場合ではなかった。彼はまだ白い衣装に身を包んだままで、暗い森の中では異様に目立ってしまう。草木の陰にしゃがみ込み、声を潜めた。
「…新一は?」
おそるおそる尋ねると、キッドは一瞬きゅっと眉を寄せた。逡巡して、真剣な顔でゆいなの肩を掴む。
「…悪い、わからねえ。建物が崩落して、あの子だけでも助けろってオレに預けて、アイツは…」
「そん、な…」
悔しそうなキッドの表情から、どれだけ危機的状況だったのか想像がついてしまう。新一が、蘭の命を他人に任せた。それが全てを物語っている。そうしなければならないほど、追い込まれていたのだろう。
腹の底がすっと冷たくなっていく。今日何度も押しのけた絶望がまた、責め立てるように心臓を揺らす。
だめだ、まだ、流されてはいけない。まだ、諦めちゃいけない。
震える手を握ってくれた快斗の手の温かさに、ゆいなははっとして顔を上げた。
「…快斗、だったら、他にどうやって脱出した?」
不安で声が掠れてしまう。目の前にいる、新一と同じくらい頭のきれる人は、はたと動きを止めて目を丸くした。
すぐにゆいなの意図を汲み取り、じっと視線を地面に向ける。
「オレだったら…そうだな…」
しばらく考えたあと、ぱっと顔を上げた。
「ひまわりの脱出用シューター!あれなら確実に地上に繋がってるし、どこよりも頑丈に作ってある!」
「そっか…!大人は通れないけど、新一なら…!」
「それだな、あの状況下で思いつくのは。急いだ方がいい。まだ出てきてねーってことは、どこかで行き止まってるのかも」
「うん、おじさんに話してくるね!」
ゆいなは勢いよく立ち上がった。探す場所が絞られれば、きっと必ず打つ手がある。
きっと大丈夫と心の中で唱えながら、湖に戻って毛利に声をかけようとした時、子供たちが湖面を指さして声を上げた。何かの影が、水面に浮かび上がってくる。
それは、防水ケースにおさめられた2枚目のひまわりだった。
「あれ、コナンくんと一緒にケースに入れたの!きっとコナンくんが近くにいるはず…っ」
蘭が悲痛な声を上げる。
このひまわりが地上まで届かず、こんなところに流れてきているということは、シューターの途中で何か不具合があったということだろう。ゆいなの脳裏に、考えたくもない光景が浮かぶ。この絵画のように、ゆっくりと静かに浮かび上がってくる、動かない子供の身体。
蘭と目が合う。お互いが鏡のように映しあっている絶望が、一層深まった。
「コナンくん!」
「コナンくん!どこですか!?」
子供たちが必死に叫ぶ声が、引き潮のように遠くなっていく。ゆいなは一度ぎゅっと目を閉じて、奥歯を噛んだ。
「…っ、おじさん!きっとコナンくんはひまわりの脱出用シューターを使って外に出ようとしたんじゃないかと思うんです。すぐに救助隊手配できますか!?」
「なるほど…!わかった、すぐに、」
「また何か浮かんできました!」
光彦が指差す先に、全員が期待と不安の入り混じった目を向ける。浮かび上がってきた黒い影は人の大きさよりもはるかに大きく、コナンではないことがすぐに分かったが、水面から現れた白と黒の模様に、ゆいなはすぐにあっと声を上げた。
「コナンくん!!」
縮尺が通常のものよりもはるかに大きすぎて一瞬疑ったが、浮かんできたのは巨大なサッカーボールだった。
しゅう、と空気の抜ける音と共にそれが萎むと、その下にいた少年が顔をあげ、辺りにいる人たちの顔を認識して、ほっとした顔で笑った。場を包んでいた緊張感が、ふっと解ける。
「よかったあ、コナンくん…」
「待ってろ!すぐに引き上げてやる!」
「よくひまわりを救ってくれた!」
口々に言葉がかかる中、陸へ引き上げられたコナンは、最初に蘭の顔を見て、安堵した顔を浮かべた。
「蘭姉ちゃん、よかった。怪我はない?」
「大丈夫よ。それよりコナンくんは?」
「ボクも平気。新一兄ちゃんが助けてくれたんだね」
「あれ、新一じゃなくてキッドだったのよ」
「えっ、そうなんだ!キッドはどうしたの?」
「わからないわ、目が覚めたらいなくて」
蘭がコナンの頬を撫で、困ったように笑う。コナンが確かめるような目でゆいなを見たので、黙って小さく頷いた。彼も頷き返す。
ちらりと森の方を見るが、キッドの気配なんてさっぱりわからなかった。でもきっと、コナンの無事を確認してほっとしているだろう。
ゆいなはコナンの横に膝をついた。火事の後に別れた時には、見られなかった彼の瞳を、じっと見つめ返す。心の弱いところを簡単に曝け出してしまいそうなほど、優しくて強い瞳。あどけない顔立ちだけど、やっぱり新一は新一だ。
「…ゆいな、姉ちゃん?」
コナンが戸惑った声を上げたのが、何故か癪に障り、その柔らかい頬を両手でひっぱった。生きている人間の柔らかさ。ゆいなはふっと肩の力を抜くと、小さな身体を強く抱きしめた。濡れて冷たいけれど、温かい、とても。
「ちょ、おい…」
「…約束守ってくれて、ありがと、新一」
耳元に小さく囁く。
キッドと蘭を助けてくれたこと。不安を蹴飛ばしてくれたこと。いつも近くに居てくれること。
丁寧に感謝を伝えられる言葉がどうしても思い浮かばなかったけれど、コナンは一瞬躊躇した後、ぎゅっと抱きしめ返すことで返事をしてくれた。
「当たり前だろ」
みんなが無事に帰ってきた。
それだけでもう、何も要らなかった。
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