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観客やスタッフは避難を終え、皆不安げに煙の上がる美術館を見上げていた。
ゆいなが後藤の姿を探して周っていたその時、突如として貯水タンクが爆発し、振動で地面がうなった。ごうごうと水の流れる音が、いくらか離れたここまで聞こえてくる。

「これで火が消えるんじゃないか!?」

中森の言葉に、すぐにゆいなはこれがキッドの仕掛けたことだと悟った。
中に人がいないことが分かっていれば、彼の機転に感心し、ほっと胸を撫で下ろすところだが、洪水の先に快斗とコナンがいることを考えて、さあっと血の気が引く。

「なあ、コナンがいねーぞ!」
「あれ?蘭もいない!蘭どこ!?」

園子の焦る声に、ゆいなははっとして周りを見回した。蘭ほど真面目な人が、この非常時に子供達を置いて、一人で行動をするとは思えない。

「(もしかして、新一を追いかけていったんじゃ…)」

コナンが館内に戻ったことに気がついて、後を追ったのだとしたら。
足の裏が地面に張り付いたように、動けなかった。近くにいたのに、どうして気付けなかったのかと、後悔ばかりが冷たい冷気のように這い上がってくる。

「先に降りちゃったのかもしれないから、探してくるね!ゆいな、手分けしよ!」
「う…うん!」

園子がすぐに階段を駆け下り出すが、ゆいなは美術館のほうを振り返った。貯水タンクの水が勢いを失っていき、やがて川のような音が聞こえなくなった。
次郎吉がひまわりの無事を確認すると言って走り出し、大人たちがその後に続く。

助けを求めるべきだろうか。
ひまわりが館内に残っていることも伝えて。工藤新一の姿をしている快斗のことも、きっと助けてもらえる。でも、この中に犯人がいるのに、自分にはなにがタブーになるのか判断ができない。余計なことになってしまわないだろうか。

「……ゆいなさん」

ぐるぐると考えていると、いつの間にか隣に後藤が立っていた。顔を向けるのを制止され、右手に何かを握らされる。つるりとした冷たいプラスチックの塊。身体の陰になるようにそっと開くと、イヤーカフ型の通信機だった。

「これ…」
「…先ほどは、すみませんでした」
「いえ、私のほうこそごめんなさい。冷静じゃなくて…」

聞き分けの悪いことを言って、寺井まで危険に巻き込んでしまった。
思わず顔を上げると、厳しい顔の造形をしている後藤が、これまでに見せなかった穏やかな微笑を浮かべていた。その表情がやっと、バーで快斗を柔らかく揶揄っていた老人の姿と重なる。

「ぼっちゃまが、あなたのように素敵な人を選ばれて、安心しました」

小声でそれだけ言うと、後藤はすぐに次郎吉たちの後を追った。
ゆいなは慌てて、渡された通信機を右耳に当てる。周囲のざわめきから少し距離をとると、冷たい機械の向こう側で、かすかに呼吸の音を拾った。

『……ゆいな?』

遠慮がちに確認する声に、どっと全身の力が抜け落ちた。座り込みそうになるのを、なんとか膝に力を入れて、込み上げるものをぐっと飲み込む。
かいと、と名前を呼んだ声が、胸の震えを映すように掠れた。

「よかった…怪我はない…?」
『ああ、大丈夫だ。探偵とオメーの友達も無事だよ』
「やっぱり、蘭、戻ってたんだ…」

蘭が二人と合流出来ずに、炎の中で一人で困っていたかもしれないと想像して、ぞっとした。
快斗の呼吸の背後で、がらがらと何かが崩れる音が絶えず聞こえている。反響する声から、彼らが鍾乳洞の中にいるのだということを再認識して、胸の奥がまたすっと冷たくなる。ひとまず無事だとしても、まだ安心はできない。

「だ、脱出、できる…よね?そうだ、救助隊呼んでもいい?」
『いや、救助は待ってくれ。かなり建物が不安定で、二次災害の可能性がある』
「……そんな」
『大丈夫。ひまわりも2枚ともケースに入れたし、犯人も、いま探偵が通信で推理ショーしてるとこだから、もう観念する頃だろ』
「うん…」

そうだね、と明るく返すことはできなかった。
快斗が黙ると、砂利を踏む音がよく聞こえた。彼は歩き続けながら、また口を開く。

『あのさ、探偵に宣言しといたから』
「…宣言?なにを?」
『はは、あとでアイツに直接聞いてみて』

どんな顔するか見ものだなーなんて、呑気な声で笑う。その声があまりにも普段通りで、少しだけ肩の力が抜ける。目的地に着いたのか、足音が止まった。快斗が小さく息を呑む音がしたが、その後に続いた声はとても優しくて落ち着いているものだった。

『じゃあ、脱出の準備するから。またあとでな、ゆいな』
「……うん」
『……オレのいないとこで泣くなよ』
「泣かないよ」

快斗はただ笑って、通話を切った。
音のしなくなった通信機を外して、ぎゅっと握り、美術館を振り仰ぐ。
地下の様子が見えない以上、どれだけ見つめたって意味がないのに、それしか出来ないことがもどかしくてたまらない。それでも、ゆいなは通信機を両手で包んで、祈るように握った。神様でもなんでもいいから、彼らを無事に返して欲しかった。

しかし、神の代わりに応えたのは、辺りを揺らす地響きだった。

「美術館が崩れるぞ!」

誰かが叫ぶ。地鳴りの中で、貯水タンクが大きな音を立てて地面に沈み、山肌にかけて雪崩れるように地盤が崩れていく。
通信機が手元から零れ落ちて転がり、展望台の柵から飛び出して、湖の底へと沈んでいく。ゆいなはそれを追いかける余裕のないまま、絶望した気持ちで形を変える山を見上げていた。

「…うそ」

周囲の音が遠くなっていく。
平衡感覚が失われて、身体の力が抜けていった。ゆいなは思わず、地面に膝をついたが、足元が崩れていくように感じられて、自分がどこにいるのか分からなかった。
子供たちの騒ぐ声が、夢の中の幻のように聞こえていた。

「蘭お姉さんが、キッドと飛んでるって!」

歩美の高い声が、すっと耳に入ってくる。跳ね上がるように顔を上げると、上空で何かがキラリと光を反射しながら滑空しているのが見えた。

「ゆいな、立って!行くわよ!」
「…っ」

園子に腕を掴まれて、ゆいなは地面から足を引き剥がすようにして立ち上がった。


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