16



まるで意思を持っているかのように踊るオレンジ色の炎の向こうで、工藤新一の姿をした快斗が、目を大きく見開いた。

「ゆいな!」

息を吸うと、熱い空気が喉を下った。ゆいなは一瞬咳き込んだが、構わずに叫んだ。

「ひまわり、何か細工されてて危ないんだよね!?私も手伝う!」
「いや、だめだ!思ってた以上に火の回りが早くて危ない!」
「…っ、じゃあ、快斗も一緒に逃げよう!?」

快斗が、耳にあてたイヤホンに向かって何かを言うが、炎で壁が崩れる音が遮って聞こえない。ゆいなはもう一度名前を呼んだ。
熱が顔をなぶり、息が苦しい。

「お願い、快斗…!」

快斗がゆっくりと目を細めた。その表情で、答えを悟ってしまう。いや、本当は、最初から分かっていた。陽炎のように彼の姿が歪んで、ゆいなは慌てて火の勢いが少ないところを探した。
ーーない。すでに胸の高さまで炎が上がっていて、それを飛び越えて快斗を引き止める術が、ない。

「……オレはひまわりを防火ケースに入れたら、すぐに脱出するから。ゆいなは、先に逃げてくれ」
「そんなの、やだ…!」

さぁっと耳の奥で血液が流れる音がしていた。苦しくて、汗が吹き出すほど熱いのに、指先だけが冷たい。心臓が肋骨に当たるほど激しく鳴る。
ゆいなの焦りとは裏腹に、快斗は心を決めたように穏やかな顔をしていて、それが余計に恐ろしかった。
胸の奥に押し込もうとしているのに、ウメノと東の顔が浮かんでは消えていた。考えたくなかった。けれど、考えてしまう。
ここでひまわりのために、彼を行かせてしまったら、芦屋の空襲と同じことにーー

「ゆいなさん!」

馴染みのない声に背後から名前を呼ばれて、ゆいなは身をすくませた。左腕を掴まれて、慌てて振り解こうとするが、びくともしない。
次郎吉のボディーガードである後藤が、息を切らして、がっちりと腕を掴んでいた。まずい、この場をどう説明しよう、と思考を巡らせ終わる前に、快斗が叫んだ。

「ジイちゃん!ゆいなを頼む!」
「えっ、寺井さん?」
「かしこまりました、ぼっちゃま!ゆいなさん、さあ早く」

工藤新一をぼっちゃまと呼んだことで、彼が快斗の助手である寺井の変装であることをすぐに理解する。それでもゆいなは足に力を入れて、彼の手を振り解こうとした。

「でも、快斗が…!」
「ぼっちゃまなら、大丈夫です」
「…っ、置いていきたくないんです…!」

視界を覆う涙の向こうで、寺井がぎゅっと奥歯を噛んだ。快斗とゆいなを交互に見て、痛みに耐えるように顔を顰め、何も言わずに首を横に振った。
絶望が熱と共に足元から絡みつくように這い上がってくる。頭の芯がすうっと冷えてゆき、視界が狭くなっていった。

炎の中に、世界で一番大切な人を、置いていく。

快斗なら、きっと脱出経路を確保している。でも、芸術と人の想いを理解している優しい彼は、ひまわりの救出を優先させるだろう。そんな人を、ここに、置いていかなければならない。たった一人にして。

「信じて、ゆいな」

真っ暗の視界の中で、落ち着いていて、優しい声だけがすっと耳に入ってくる。

「…快斗」
「オレのこと、信じて」

顔を上げると、涙と空気の熱で歪む視界で、彼のまっすぐな目がこちらを見ていた。口を開いても、言葉が出ない。唇をぎゅっと噛み締めて、ゆいなが小さく頷くと、彼はにこりと笑って踵を返した。

「……っ」

名前を呼ぶのを必死で耐える。寺井が遠慮がちに腕を引いて、大人しくそれに従って走り出した。蘭が止めていてくれたエレベーターに駆け込むと、すぐに扉が閉められて上昇する。

「ゆいな!よかった!大丈夫!?」
「後藤さん、探しに行ってくれてありがとう!」

蘭と園子が気遣うように背中を撫でてくれる。その手がとても温かくて、深い水から顔を出した時のように、一気に周りの音が戻ってくる。はあ、と息を吐いて、その時初めて自分が息を止めていたことに気がついた。膝ががたがたと震えていた。

「火はもうすぐそこまで迫ってます」
「大丈夫じゃ。後藤、ようやった」
「でも、2枚目と5枚目のひまわりが…」

コナンが声を上げるが、次郎吉は問題ないと言う。ゆいなは何と言ってよいのかわからず、後藤を見た。彼は小さく首を横に振った。快斗に任せろということだろう。確かに、絵画が残っていることを告げれば、次郎吉は何の対策もないまま炎に飛び込んでしまう。

「(……快斗、無理しないで…)」

祈る気持ちで、ぎゅっと両手を握る。手のひらには汗が滲んでいるのに、指先が冷え切っていた。

「……ゆいな姉ちゃん」

コナンがこちらを見上げている。ゆいなは少し考えて、立ったままで小さく返事をした。同じ視線まで屈んで、コナンの目を真正面から見るのが怖かった。彼に優しくされたら、助けを求めて縋ってしまいそうで。

エレベーターという狭い密室に気遣って、コナンは幼い子供の口調のまま続ける。

「顔が真っ青だけど、大丈夫?」
「大丈夫、心配かけてごめんね」
「……もしかして、"新一兄ちゃん"に会った?」

どきりとして、ゆいなは息を呑んだ。その一瞬の戸惑いで、コナンに全てが伝わったのが分かった。彼は真っ直ぐに見返したあと、ほんの微かに頷いた。

「えっ、ゆいな、新一がいたの!?」
「う、ううん、みてないよ!」
「よかった…」

蘭が心底ほっとした顔をする。
エレベーターが最上階に着くと、次郎吉を先頭に少しでも建物から離れようと駆け足でセレモニーを行っていた広場へと向かう。
ゆいなは足を止めて、エレベーターを振り返った。

今なら、みんなに気付かれず、快斗のところに戻れる。

足を建物の方に向け、吸い寄せられるように半歩踏み出した、その時だった。

「ダメだ」

背後から釘を刺すような鋭い声に、足が固まった。
振り返ると、コナンが真っ直ぐにこちらに歩いてきていた。眼鏡の奥の瞳が、責めるようにゆいなを見る。

「…戻るなよ」
「でも…」
「逃げろって、言われたんじゃねーのか?」

まるで見ていたかのようにコナンが言う。その声は、先程と一変して、優しくて心から気遣う声だった。
不意打ちだった。
押さえつける前に、悲しみと恐怖が迫り上がってきて、ゆいなは俯いた。
耐えきれなかった涙が、そのまま重力に従って地面に染みを作る。なんとか絞り出した声は、コナンに聞こえるかどうかの小さなものだった。

「…わかってる、けど、」
「……」
「信じてるのに、でも、やっぱり……こわい…」

怖い、とはっきりと言葉にした途端に、堰を切ったように絶望が溢れ出してきた。

戻って来なかったらどうしよう。

ただそればかりがぐるぐると頭の中を巡って、いっそこれは夢なんじゃないかとさえ思えてくる。炎の中に飛び込んだら、実はあっけなく目が覚めるんじゃないだろうか。なんて、馬鹿みたいなことばかり。

快斗の前では理性を振り絞って"信じる"だなんて頷いておいて、新一を前にすると子供に戻った時のように、感情だけがひとりでに暴走してしまう。彼が子供の頃の姿だから、余計に心が暴かれるのかもしれない。
ぐっと唇を噛んで、手の甲で涙を拭ったとき、視界の端に見えていたコナンのスニーカーが、急ぎ足に近づいてきた。そのまま走り去る彼の足に、慌てて顔を上げる。建物の非常階段に向かう細い腕を掴もうとして、掴み損ねる。

「新一、待って!」
「大丈夫!早くひまわりなんとかしねーと!」
「でも、」

コナンが振り返る。
何度もゆいなを勇気づけた、自信たっぷりの笑顔だった。これまで、この顔に裏切られたことは、一度もない。

「オレもあいつも、オメーに嘘なんてつかねえよ。ぜってー戻るから、大人しく待ってろ!」

あいつと協力なんて癪だけどな、とにやりと口元を上げて、コナンは再び踵を返し、あっという間に非常口の中に消えていった。
伸ばした手を、ゆっくりと降ろす。責めるような不安が、呼吸をするごとに少しずつ静かになっていく。

「…快斗も新一も…ほんと、ばか……」

独りごちて、ゆいなは力任せに涙を拭った。
この世で一番信頼できる二人が、大丈夫だと言った、その言葉を信じたかった。恐怖に震える心に蓋をして、前を向ける自分の強さを、きっと二人も信じてくれている。

まだ何か、ここでも出来ることがあるかもしれない。まずは寺井に話を聞こうと、ゆいなはその姿を探しに走った。

すぐにその場を離れたせいで、入れ違いで非常口に飛び込んでいった、蘭の姿に気付くことはなかった。


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