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鈴木次郎吉が、怪盗キッドから絵画を取り戻したニュースは、瞬く間に世界中に広まった。
快斗の読み通り、”日本に憧れたヒマワリ展”は、予定どおり開催される運びとなり、そのチケットの倍率の高さに世間は騒然となった。ゴッホのひまわりが揃うというだけで話題性は十分なうえに、世紀の大怪盗の捕り物劇は日本ならず世界を沸かせていた。
「うわー、ハズレたあ」
青子が机に伏して、携帯の画面を頭上に上げた。ハズレというポップな文字が、手の中で踊っている。
夏休み中の登校日。その非日常感に、生徒たちがどこかふわふわと浮き足立っている空気の中、ヒマワリ展の抽選という倍率の高い運試しに、教室中で落胆の声ばかりが上がる。
「あーあ、いいな、ゆいなは関係者枠で入れるんでしょ?……ね、青子もお願いするのって、さすがに無理、かな?」
大きな目に見上げられて、ゆいなは言葉に詰まった。懐の深い園子なら快諾してくれそうだ(あ、でも、それなら"好きな人"も連れてこいって絶対言われる…)それに、万が一のことを考えると、危険かもしれない場所に、青子を連れて行きたくなかった。言い淀んでいると、背中にずしりと重たいものが乗った。快斗が後ろからゆいなの肩に手を回して、呆れた目で青子を見る。
「バーロー、無理に決まってんだろ」
「快斗には聞いてないもん…でも、そうだよね、さすがに」
「ごめんね、もう枠が埋まってるみたいで…」
「ううん、青子こそごめん!また感想聞かせてね!」
「まあ、フツーには当たらねえよ、こんなの」
「そういう快斗はどうなのよ」
快斗がスマホの画面を向ける。落胆した表情の次郎吉が、画面の中でコミカルに動いていた。それを見た青子が、ちょっと得意げな顔をする。
「ふふん、日頃の行いね」
「なんだとー?それを言うならオメーこそ」
「はいはい、耳元で喧嘩しないでね」
間に挟まれたゆいなが、二人の勢いを抑えるように、両手で壁を作る。快斗がため息をついて、ゆいなの頭のてっぺんに顎を乗せると、諦めたように力を抜いた。その様子を見ていた青子の目がきらりと輝く。
「ねえ、二人さ、夏休み中になにかあった?」
「えっ?」
「快斗、前にも増してゆいなにベタベタじゃん」
「べ、別にしてねーし」
「よく言うよ!あんまりシツコイ男はフラれるよー?」
「うるせーな!余計なお世話だっつの!だって俺たち…」
かがんでいた身体を伸ばした快斗は、言いかけて口をつぐんだ。不自然な間に、ゆいなが顔を向けると、弾かれたように顔を逸らされる。青子が不審そうに眉を寄せた。
「…なに?」
「……なんでもねー」
「なんでもなくないじゃん。快斗、ヘンなの。ねえねえ、どうなのゆいな?」
「へっ」
「ゆいなに聞くなよな!この話終わり!」
まるで快斗が鳴らしたかのようにタイミングよくチャイムが鳴り、沸騰した鍋が火から下ろされたように、ざわめきが分散して静まっていく。
ゆいなも自分の席に座って、なるべく周りから顔が見えないように俯き、探し物で鞄の底を漁るふりをした。すぐに先生が入ってきて、みんなが前を向いてくれて助かったけれど、静かになった教室に自分の心臓の音が響いてしまわないか不安だった。
通り過ぎた快斗の横顔が真っ赤で、おそらく彼と同じ思い出が、頭の中を駆け巡っているのだとわかってしまった。あの、快斗の部屋での夜を。無意識に、左手の薬指を撫でる。
「(……どうしよう)」
点呼で先生がこちらを見る前に、赤くなった顔を冷ます方法を必死に考えたが、一向に思いつくことはなかった。
▽
「朝は危なかったな。さすがに青子が来たらやりづれー」
「やっぱり、ヒマワリ展で何か起こりそうなの?」
「ああ…」
フォークにパスタを巻いたまま、考え込むように手を止める。ブロッコリーとベーコンのパスタは、以前青子に教えてもらった得意料理だった。二人きりのリビングで、クーラーの音だけが静かに唸る。
「ねえ、やっぱり、私から園子たちに話すのはだめかな」
「それはダメ。共犯がいる可能性もあるし。ゆいなに少しでも危険が及びそうな方法はだめだ」
確かに、ただの女子高生が突然、この中に悪い奴がいるなどと言っても、誰も信用してはくれないだろう。それに、情報源はどこかと聞かれても答えられなければ、疑われるだけだ。
「(こういう時、新一みたいな知名度があればなあ…)」
「まあ、犯人逮捕はオレの仕事じゃねえし、餅は餅屋ってな」
「新一に任せるってこと?」
「まあ、そんなとこ。ゆいなは、できれば家で待ってて欲しいんだけど…」
快斗が、意思を伺うように見つめる。
「危ないことが起こるかもしれないって分かってたら、いち早く異変に気付けるかもしれないし、蘭たちの近くにいるよ」
「…そう言うと思った。まあ、あいつらの近くに居るなら、大丈夫だと思うけど…ごめん、本当は誰に注意するべきだとか、全部話すべきだよな」
ブルーパレットでは、犯人の名前は明かさないとはっきり言っていたが、快斗自身にも迷いがあるようだった。
「うーん…知ってたら逆に、なんか怪しい行動しちゃいそうだし。私と新一、チャーリーさんに目をつけられてるしね」
「確かになあ。オメーら、なりふり構わねー鉄砲玉だから」
鉄砲、という言葉に、ゆいなは思わず手を止めた。その機微に聡く気がついた快斗が、困ったように眉を下げる。
「……ごめん、あんま心配すんなよ」
「だって…あんなにまっすぐ銃を向けられたの、初めてみた…」
中森警部は、絶対に殺意を持って発砲しない。
しかし、あの夜にチャーリーが向けた銃口には、確実にキッドを傷つける意思があった。散らばる紙幣の海の中で、潮が引くように音が遠くなっていく感覚が蘇り、指先が冷えていく。
「大丈夫、オレのほう見て」
「…うん」
「何があっても絶対大丈夫だから」
「……快斗」
テーブルに置いた左手を、ぎゅっと握られる。薬指の指切りを思い出して、心臓を落ち着かせるようにゆっくり息を吸う。
何があっても信じて送り出すと決めたのに、頭の声と心の声はどうしてこうも違うんだろう。本当は、銃で狙われるような危険な場所に、行かないでほしい。
その言葉を飲み込んで、代わりに強く手を握り返した。
「無理、しないでね」
「ああ、ゆいなも。自分の安全を第一に考えてくれよ。オレの心臓がいくつあっても足りねーから」
「う…はい」
快斗が人差し指と親指で、ゆいなの左手薬指をするすると撫でる。何かを考えるように数往復すると、あとさ、と歯切れ悪く言葉を切り出した。
「…教室で、ああいう顔、すんなよな」
「え?」
「だから…青子に、最近何かあったかって聞かれたとき!」
顔を伏せた快斗の耳が赤く染まっていて、午前中のことが頭に蘇る。ああいう顔、と指されることに心当たりがあって、羞恥心で顔が熱くなる。
「だ、だって、あれは快斗が…!」
「お、オレはいいんだよ!…頼むから、他の男がいるとこで、あんまかわいい顔すんな」
「……っ」
気にしすぎだとか、過保護だとか、言い返す言葉はたくさんあったけれど、快斗がじっと不満げにこちらを睨みつける顔を見てしまったら、どれもが喉の奥で萎んでいった。
いつも冗談めかしてしか表現しないヤキモチを、真っ直ぐに訴える拗ねた瞳から目を逸らせなくて、ゆいなは熱くなる頬をそのままに頷いた。
「……ぜ、善処します」
「よーし」
あまりにも嬉しそうに笑うので、ゆいなもたまらず肩の力を抜いて、笑みを零した。
快斗は、あの夜以降、やけに左手ばかり手を繋いだり、薬指を触ったりすることが多い。からかい目的で、意図的だと思っていたけれど、快斗の心から嬉しそうな顔を見ると、もしかしたら無意識にそうしているのかもしれない。
「(…指摘して、拗ねたらいやだから、やめとこ)」
そう思いながら、快斗の温かい手を握り返した。
気にしてくれていた青子には悪いけれど、しばらくはこの特別な秘密を、好きなだけ独り占めしよう。
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