13
バイクが停まったのは、快斗の家だった。
相変わらず電気が消えていて真っ暗だ。もうすっかり見慣れているはずなのに、快斗の靴だけが並んでいる玄関を見て、突然息がつまって身体が強張る。ここで靴を脱いで上がったら、正真正銘二人きり。
"愛してる"
そう言った快斗の切実な声と、繋ぎ止めるように口内を動く舌の、溶け落ちそうなほどの熱を思い出して、ゆいなは唇をぎゅっと噛んだ。いつも飄々としている快斗の、余裕のない表情が脳裏に焼き付いて、目眩がした。考えちゃだめだ、いつもどおりに、と思うほどに鼓動が加速する。目の周りがどんどん熱くなるのが、どうにもならなかった。
「ゆいな?どうしーー」
振り向かないで欲しかったのに、止める前に快斗と目が合う。パズルが噛み合うように、ぱちりと。
目を瞬いたのち、伝染するように快斗の耳が赤くなっていく。肺の空気を全て出すような長い息を吐いて、彼が両手で目を覆った。
「まじで勘弁して……」
「あの、これは、その、」
「あーもう!あのなあ、オレずっと我慢してんの!」
快斗が靴下のまま玄関に降りてきて、二の腕を掴んだ。一瞬悩むように視線を彷徨わせたあと、腕を引っ張って抱きしめる。背中をさする手のひらは、どちらかというと彼自信を落ち着かせるためのように思えた。耳元に、苦しそうな声が落ちる。
「あんま煽んな」
「…っ」
「ゆいなにオレのこと全部知ってもらって、ちゃんと、したいから」
来て、と囁かれて、手を引かれる。慌てて靴を脱いで階段を登る。通されたのは快斗の部屋だった。窓から差し込む月明かりが、淡いスポットライトのように、壁の写真を照らしている。ブルーパレットでの会話を思い出し、じっとそのマジシャンの姿を見つめ返す。出来ることなら、話してみたかった、と思う。大切な人が一番憧れる人。
ふと、快斗が繋いだ手を引いた。ダンスをするように手のひらを合わせて高く掲げ、腰を引き寄せ身体を密着させる。
「わっ、なに?」
「いいから。ほら、スリー、ツー、ワン」
カウントを囁くと、最後にくるりとターンのステップを踏んだ。ガタン、と何かが動く音がして、辺りが突然暗くなる。一瞬の浮遊感に驚いて、快斗に抱きつく。落ちると思ったのに、痛みはない。
「目、開けて」
言われるがまま目を開けると同時に、パチパチと電気が順につき、真っ暗闇だった空間が照らされた。
コンクリート造りの無機質な部屋。磨き上げられた白いスポーツカーと、壁に設置された棚にずらりと並んだ何かの道具。壁の中央で、年代物のジュークボックスが、色鮮やかなネオンを光らせている。さながら、洋画に出てくるヒーローの秘密基地だった。
快斗は抱き上げていたゆいなを丁寧に降ろすと、手を握ってジュークボックスの前へ導いた。
「ここ、親父の隠し部屋なんだ。ここで、オレは親父がキッドだったことを知って、オレもキッドになることを選んだ」
「お父さんの…」
棚に並んだ道具は、マジックで使うものなのだろうか。部屋の中央に、キッドの衣装が一式、トルソーにかかっていた。快斗の家の中には、キッドを連想させるものは一切ない。警察が捜索しても、ひとつも証拠は出ないだろう。いつもどうしているのか不思議だったが、この部屋を見て納得がいった。
快斗が、ジュークボックスのスイッチを押した。積み上げられたレコードが一枚、台の上に滑り、針が落ちる。
『久しぶりだな、快斗…』
しばらくのノイズの後に響いた、落ち着いた男性の声。ゆいなは思わず、快斗の顔を見た。
「お父さんの声?」
「そう。オレがこの部屋に入ったら、流れる仕掛けになってたんだ」
回るレコードの上を針が走る様をじっと眺めている快斗が、何を考えているのか、ゆいなはなんとなく分かった。失くしたものを追い求める子供のような、どこか心許ない表情。思わず、繋いだ手にぎゅっと力を込める。
「ここに来ると…親父に会える」
「…快斗の大切な場所なんだね」
ゆいなの手を握り返した快斗が、はっと顔をあげる。何かを言いかけて、やめて、それからふわりと柔らかく笑った。
「ああ、ジイちゃんも入ったことない。ゆいなが正真正銘、ただ一人だよ」
重たいものを降ろしたあとのような、ほっとした笑顔だった。その表情を見て、快斗がこれまで抱えていた秘密の重みを、今更はっきりと理解できたような気がした。
彼がどんな気持ちで、この部屋で一人きり、8年ぶりに父親の声を聞いたのか。キッドになることを選んだとき、真実を知ったとき、どれだけ悩んだのか計り知れない。
その時の快斗に、大丈夫だよ、と言いたかった。
快斗のしていることが世間から見て正しいとは言えなくても、自分だけは、絶対に何一つ否定したりしない。
「大事な場所に、連れてきてくれて、ありがとう」
「……ああ」
「キッドの秘密も、快斗のことも、絶対に守るからね」
「はは、すげー頼もしい」
そう言って笑うと、快斗はジュークボックスのボタンを再び押した。ネオンの光が消えて、再び静寂が訪れる。優しく語りかける父親の声が、ボタンひとつであっさりと失われるのが、たまらなく寂しく感じたが、快斗は何も言わなかった。
繋いだ手を引かれるまま、そっと肩を押されて、中央の赤いソファに座る。
快斗が床に片膝をついて、ゆいなの左手をそっと撫でた。しばらく黙って指先を摘まんだり離したりしたあと、きゅっと顔を上げて、まっすぐにゆいなを見上げた。
そのあまりにも真剣な顔に、お腹の底から緊張が駆け上がって、喉が張った。大切なことを言うぞという彼の気迫に、静かに息をとめる。
「今日見せたものが、オレの全部。もう他に、ゆいなに黙ってることはない」
「…うん」
「だから、これからも、ずっとオレの一番近くにいて」
オレだって、ゆいなのこと、絶対に守るから。
そう言うと、快斗は握ったゆいなの左手を持ち上げて、指の付け根にキスをした。
左手の薬指。
その意味することが分からないほど、ゆいなはもう子供ではなかった。たまたまそこだっただけかもしれない、という戸惑いは、快斗の真剣な目を見ればあっけなく消えた。しばらく見つめあったあと、気まずそうに目を逸らすと、癖毛の隙間から赤くなった耳があらわになる。
「……いっとくけど、これが正式なヤツじゃねーから」
「……」
「その時が来たら、一生忘れられねーようなの、ちゃんとするから!…な、なんか言えよ」
快斗の不満げな声に、少しの不安が滲んでいる。何か言わなきゃと思うのに、板がつかえたように、喉が震えるだけだった。
緊張でこわばった顔を上げた快斗が、少し目を見開いてから、眉尻を下げる。ふ、と息を吐いて、困ったような顔でやわらかく笑った。
「……なんで泣くんだよ」
「泣いてない…」
快斗の人差し指が、目尻をなぞる。そのまま頬に手が添えられて、促されるままにもう一度目を合わす。頬で感じる体温が、火傷しそうだった。ゆいなは左手の薬指を、守るように右手で握りしめた。
もったいない、と思った。快斗がくれた約束が、熱と一緒に空気に溶けていってしまうのが。
ひとつ、瞬きをして、息を吸う。
「…その時が来るの、待ってるね」
「……おう」
「ずっとずっと待ってるから、忘れちゃやだよ?」
「忘れるわけねーだろ」
呆れたように快斗が笑う。つられて微笑むと、頭の後ろをぐっと押されて、唇が重なる。二度三度と触れ合うキスをしたあとで、こつんと額が重なった。
「ゆいな、これからもずっと一緒にいよう」
「うん」
そう言って、指切りをするように、左手の薬指同士を絡めて上下に振る。目の奥がまたぎゅっと熱くなる。思わず彼の頭を抱きしめると、ふわふわの髪の毛が柔らかく頬を撫でた。首筋に擦り寄ってくるのが、くすぐったくて、身を捩ってふふふと笑うと、ぱっと快斗が顔を離して、少し拗ねたような表情で呟いた。
「……今夜も一緒にいてくれるよな?」
「うん…え?」
「オレ、散々、焦らされたんだけど」
ゆいなの左手を持ち上げて、手のひらにキスをする。唇を寄せたまま、じとりと咎めるように睨むその目の端が赤くて、背中がぞわりとする。どこでスイッチを押したのか、欲を孕んだ目線で、好きだと伝えられているようで、目の前がチカチカした。
「全部、オレにくれるんだよな?」
ああ捕まった、と思ったときには、手のひらを舌先がゆっくりと舐めあげる。恥ずかしくて沸騰しそうな頭でかろうじて頷くと、目を細めた快斗が満足げに笑った。
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