12



『pool bar ブルーパレット』

そう書かれた電光掲示板には、ビリヤードのキューとボールが描かれている。
雑居ビルの二階。夜も更けてきた時間帯に、barと書かれた店に入るのは憚られるのに、快斗はまるで実家のような気軽さで階段を登っていく。

「えっ、入っていいの…?」
「ああ、ここは誰でもビリヤードが楽しめる店なんだぜ」

そう言って、ウインクをする。
そういえばと、青子がビリヤードの話をしていたことを思い出す。快斗よりは上手くできる、とからかって笑っていた。その時に、ブルーパロットという名前が出ていた気がする。

「あ、青子と二人でよく来るって言ってたお店?」
「……言い方」

快斗がむぅと唇を突き出す。
快斗と青子は幼馴染だ。二人にしか分からないことや、二人だけの大切な思い出があるのはまったくかまわない。
そう思っていたのに、会話に一度出たかどうかの店の名前を覚えていたなんて、もしかしたら二人しか知らない場所があることが、無意識に悔しかったのかもしれない。
そんなゆいなの気持ちを悟ったのか、快斗がドアから手を離し、向かい合う。

「ゆいなを今までここに連れてこなかったのは…ここが、俺"たち"のアジトだから」
「アジト…」
「キッドの正体もアジトの場所も、仲間のことも全部ゆいなが知ってたら、いざという時に守れないかもって…思って」

珍しく、歯切れ悪く言い淀む。
ゆいなは勘がいいから、黙って連れてきても、全部バレる気がして。と付け加えて、申し訳なさそうに目を伏せた。

「守ってくれてたんだね」
「知ったら、もう戻れないけど…本当にいいのか?」
「いまさら」

もう戻るつもりもないよ。
ゆいなが微笑むと、快斗はふっと眉の力を抜いた。
今度はゆいなが扉に手をかける。
カランという鈴の音と共に、目の前に広がったのはビリヤード台が数台と、酒の並んだ棚を囲むカウンター。そしてカウンターの中でこちらを見て会釈をした、初老の男性だった。

「ジイちゃん」

快斗が、彼のことをそう呼ぶ。他に客の姿はなかった。
ジイちゃん、と口の中で快斗の言葉を反芻する。爺ちゃん、と漢字に変換したところで、彼がにこりと微笑んだ。

「お待ちしておりました、快斗ぼっちゃま」
「だぁから、ぼっちゃまはやめろって……しかもゆいなの前で…」

快斗が拗ねたように唇を尖らせる。
ぼっちゃまと呼ばれて不貞腐れる彼は、なんだか小学生に戻ったみたいだった。

「はじめまして、ゆいなさん」
「はじめまして、えっと、おじゃまします」
「寺井と申します。ぼっちゃまの"助手"をしております」

助手、と言うときに、寺井の眼鏡の奥の瞳がきらりと輝いた。何の助手かは言われずとも、すぐに頭の中で点と点が繋がる。怪盗キッドには助手がいる。それは以前から知っていたが、その正体を知らされていなかったゆいなは、快斗の母親がそうではないかと思っていた。この柔和な初老の男性が、キッドのアクロバティックなマジックに協力をしていたなんて。

「もともと、二代目キッドは、ジイちゃんがやってたんだ。目的は俺と同じ」
「まさかぼっちゃまに見破られるとは思ってませんでしたね。しかも自分がキッドになるとおっしゃるなんて」

寺井は快斗の父親、黒羽盗一の付き人をしていたという。その名残で快斗のことを"ぼっちゃま"と呼ぶのだと、快斗から念を押すように説明される。

「ふふ、探くんのこと御坊ちゃまっていうくせに」
「うるせー!だからやめろって言ってるのに…」
「そうはいきませんよ」

寺井は笑って、快斗のことを子供のようにあしらう。無茶をしてばかりの彼の側に、協力してくれる大人がいるのだということに、ゆいなは少し肩の力が抜けた気がした。
促されるままにカウンターに座ると、すでに珈琲が用意されていた。「お好きですか?」との問いに頷く。美しい模様のティーカップに注がれた珈琲に全員が口をつけたところで、さて、と寺井が改まったように姿勢を正す。

「今回のこと、わたくしからゆいなさんにお話しさせていただきたくて、お呼びだてしました」
「寺井さんから…?」
「すべては、わたくしが快斗ぼっちゃまにーー怪盗キッドに、依頼させていただいたことなのです」

長い話になりますが、と前置きをして、寺井は語り出した。戦火に燃え落ちる、芦屋の屋敷での悲しい物語を。



話を聞き終えた後、ゆいなはしばらく言葉を見つけられなかった。絵画のために命をかけた人がいたことも、それを受け入れるしかなかった女性のことも、彼女を連れ出すことしかできなかった寺井のことも、誰のことを考えても胸が苦しかった。現在に残存する芸術には、それを後世に残そうとした人々のストーリーが必ずある。一枚の紙に、価値を見出し、命をかけた人がいる。そんなこと、これまで、想像したこともなかった。美術館に並ぶ絵画を、絵としてしか認識したことがなかった。

「彼女は、清助さんのことが好きだったのでしょう。いまも、毎日、美術館でゴッホのひまわりを眺めています」
「それって、もしかして…」
「ああ、俺たちが美術館で会った、ウメノさんだよ」

"これによく似た絵に、とても大切な思い出があって。観ることは叶わないのだけれど"

彼女がそう言った時、快斗が"芦屋のひまわり"のことを持ち出したことを思い出す。あの時すでに、快斗は彼女の過去を知っていたのだろう。寺井が燃え盛る屋敷から持ち出し、贋作に偽装してヨーロッパに隠したひまわりが、巡り巡って、今、アルルで発見されたのだという。
見つかったという報道を見た時は涙が出た、と寺井は言う。

「万が一にでも、絶対に、あのひまわりを損ねることだけは許せないのです」
「つまり、今回のキッドの目的は、盗むことじゃなくて、ひまわりを守ることってこと?」
「そう。さっき話した、芦屋のひまわりを憎んでるっていう奴からな」

快斗の説明では、芦屋のひまわりを"壊す"ことを目的としている人物がいるということだった。
盗んで金にするわけでもなく、壊したい、という心理がゆいなにはいまいちピンとこない。

「飛行機の爆発も、その人が?」
「爆弾は貨物室に設置されていた。そのままひまわりが爆発に巻き込まれることを狙っていたんだろ」
「じゃあ、キッドが盗んだひまわりを、お金と引き換えに返したのは…」

ゆいなはそこで言葉を切り、快斗の顔を見た。彼は、にやりと自信に溢れた笑みで、カップを口に運ぶ。当ててみろ、ということだろう。知らされていなかったキッドの真の目的がわかった今、情報がゆっくりと繋がっていく。

「…鈴木次郎吉さんの信頼を、取り戻すため?」
「ピンポーン!あの爺さんが、ひまわりのためにいくらでも金が出せて、キッドから取り返せると分かれば、貸出を渋ってた他の絵の持ち主たちも、納得するだろ?」

なんたって、国際的な天下の大怪盗から取り戻したんだからな!
ぐん、と快斗が胸を張る。対照的に、寺井が申し訳なさそうに体を縮こまらせた。

「わたくしの我儘で、キッドの名声に傷をつけてしまい、盗一様に面目が立ちません…」
「なーに言ってんだよ、ジイちゃん。使えるものは使わねえと!ウメノさんに、たくさんの人に愛される"芦屋のひまわり"の姿を見せたいじゃねーか」

快斗がにっと笑う。
その言葉に、はっと気がつく。ただウメノにひまわりを見せるだけなら、他にいくらでもやりようがある。快斗はあくまでも、展覧会で対面させたいのだ。業火からひまわりを守った清助の決意が、今の人々を笑顔にしているのだと。その意思が無駄ではなかったことを、彼女に伝えたいのだ。
尚も申し訳なさそうにする寺井の肩を、快斗が朗らかに叩いた。

「それに、親父だったら絶対に協力した。だろ?」

自信たっぷりな笑顔に、「そうですね」と寺井がやっと肩の力を抜く。
ふと、快斗の部屋に飾られた、大きな写真パネルのことを思い出す。初めて快斗の部屋に行った時に、父親だと紹介された写真。スポットライトを浴びて、悠然と微笑むマジシャン。そして初代怪盗キッド。どんな人だったんだろう。
父親との思い出を話す快斗は、いつも楽しそうだから、その人となりは想像に難くない。

「その、ひまわりを狙ってる人の正体は分かってるの?」
「まあ、おおよそは。でも、共犯がいる可能性もあるし、まだなんとも言えない」
「……サムライたちの中にいるのね」

神妙に呟いたゆいなに、快斗は目を丸くした。それから困ったように眉を下げる。

「オメー、ほんと勘が鋭いよなあ。それってやっぱ、あの名探偵と付き合いが長いから?」
「え、どうなんだろ…考えたことなかった」

ふーん、と目を細めて、快斗はゆいなの頬を親指と人差し指で摘んだ。むにゅ、と唇を尖らせさせて、じとりとした目で顔を寄せる。

「な、なに…」
「心配なんだよなあ。ゆいな、後先考えずに飛び出すところが、マジで名探偵にそっくりなんだよ」
「う、新一と一緒にしないでよ…あの推理バカと違ってわきまえてるから…」
「ふーん?少なくとも今回は、結構危険な場所で出くわしましたけど?」

返す言葉が見つからず、ゆいなは顔を固定されたまま目を逸らす。一瞬の沈黙の後、にやっと笑って快斗が手を離した。

「ま、つーわけで、犯人候補の名前は言わねーことにするよ」
「……わかった」

あっさりと頷いたゆいなに、快斗が拍子抜けした顔をする。

「…素直じゃん」
「だって、快斗の全部を信じるって、決めたもん」

快斗が信じて話してくれるなら、その信頼に応えるのもまた、"信じること"だろう。
真の目的を知ったところで、推理の腕も奇術の腕もないゆいなに、出来ることは多くない。

「快斗がそれが一番だって言うなら、私は快斗を信じてる」

ただ、快斗を信じて傍にいる。
それだけは、他の誰よりも出来る自分でいたい。もう誰の言葉にも、揺らいだりせずに。

「ゆいな…」

快斗が、ゆいなの肩を両手で掴む。
彼の目が一瞬、泣き出しそうに歪んで、それから安心したように柔らかく笑った。その表情が、迷子の子供が親を見つけたときのようで、ゆいなはたまらず快斗の手に自分のものを重ねた。どこにも行かせたくない。もう迷子にはさせたくない。
微笑んでみせると、肩に置かれた快斗の手にぐっと力が入り、その長い睫毛が近づくーー

「……ぼっちゃま」

彼を制止したのは、寺井の咳払いだった。
快斗は目が覚めたように何度か瞬きをして、そらから項垂れるようにゆいなの肩に額を置いた。

「はぁ……これは、まずい」
「重症ですね」
「どーすりゃいいんだよ、マジで…」
「…快斗?」

名前を呼ぶと、その顔が少し持ち上がる。照れたように耳を赤くして、こちらを上目遣いで睨み返す快斗に、ゆいなは体温が上がるのが分かった。快斗は一度ぎゅっと唇を噛んだ後、また肩に頭を乗せる。距離の近さにあたふたとして、思わず寺井を見ると、呆れていると思っていた彼は存外嬉しそうだった。

「さて、そろそろ店仕舞いですよ」
「…ゆいな、行こう。送ってく」
「う、うん」

掴まれた手首が熱い。
快斗のバイクの後ろに乗って、その身体に両手を回す。ぐっと体をくっつけると、彼の背骨がぴんと伸びた。

「あのさ、ゆいな、もう一箇所付き合ってくれる?」
「うん、いいけど、どこ行くの?」

もう夜もだいぶ深い。
快斗はしばらく言葉を探したあと、噛み締めるように呟いた。

「…俺のーーキッドの、はじまりの場所」



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