11
「とにかく帰ろうぜ」
コナンの言葉に、ゆいなは「そうだね」と返事をしようとした。しかしそれは言葉になる前に、背後から伸びてきた手のひらに遮られる。突然口を塞がれたことに、恐怖を覚えて声を上げる前に、耳元で女性の声がした。
「あ、ごめん、新一。迎えが来てくれるみたい」
それは、ゆいな自身の声だった。
あっけらかんとした、ごくごく自然な声。そんなことが出来る人物を、ゆいなは一人しか知らない。口を覆う大きな手の下で、その人の名前を呼ぶ前に、ぐらりと視界が暗転した。
「……っ」
背中が壁に当たって、ゆいなは反射的に目を閉じた。閉じ込めるように両腕の上から抱きしめて、ぐっと壁に押し付けてくる腕は、決して逃がさないとでも言うようだった。びくともしない強い力の中で、不釣り合いなほど柔らかい髪の毛が頬をかすめ、首元に温かい額がすり寄る。両腕を抱き込められているから、背中に手を回せないのがもどかしかった。ゆいなは目を開けて、ゆっくりと名前を呼ぶ。
「快斗」
身体を包む腕に、ぎゅっと力が入った。ゆいなは唯一動かせる顔を傾けて、彼の頭に頬を寄せた。自由なくせ毛がくすぐったいと思えるのが、なんだかひどく久しぶりな気がした。
快斗は黙ったまま、顔を上げない。
「快斗、怪我してない?さっきの銃、大丈夫だった?」
「……うん」
「よかった…」
「ゆいな……オレ……ごめん」
絞り出すような掠れた声。背中に回る腕は、抱きしめるというより、縋り付くようだった。
「ゆいなの気持ち、わかってなくて、ごめん…」
「そんなこと…」
「さっきのアイツとの話、全部聞いてた。もうゆいなに悲しい顔させないって、誓ったのに」
快斗がやっと顔を上げて、少し身体を離す。キッドの衣装を脱いで黒いTシャツ姿の彼は、片腕は背中に回したまま、壊れものを扱うかのように、ゆいなの頬をそっと撫でた。
慰めるような手つきなのに、今にも泣きそうな顔をしているのは、快斗の方だった。
「美術館でオレのマント掴んだ時、ゆいなの顔見て、はっとした。またオメーのこと傷つけてるんだなって…」
「……快斗」
ゆいなは自由になった腕を、快斗の背中に回した。そんな傷ついた顔をしないで欲しかった。ゆいなが考える"味方"は、彼にそんな顔をさせるものじゃない。
「ずっと考えてたんだ」
「…うん」
「ゆいなにキッドのこと見破られた時、オレは嘘を突き通すべきだったんじゃないか、って」
「………」
「オメーは、賢くて優しいから、オレがキッドじゃないって言い張ったら、騙されてくれただろ?」
「………それは…」
快斗の言う通り、もしかしたら、そうなっていたかもしれない。
彼がどうしても隠したいことを、無理矢理に暴くようなことは、きっとしない。
真実に気付いていながら、騙されたフリを続けることも出来ただろう。本当に快斗がそう望んだのなら。
「でも、やっぱりゆいなには、嘘つきたくなかったんだ。オレの全部を知ってて欲しい、ゆいなならきっと受け入れてくれるから、って…」
「私は、快斗が秘密を打ち明けてくれて、嬉しかったよ」
「だけど、そのせいで、危険なこともいっぱいあっただろ」
「快斗のせいだなんて、思ったことない」
「オレはそう思ってた」
ゆいなは返答に困った。
快斗のその優しい気持ちを、簡単に否定することはできなかった。飛行船で偽バイオテロ事件に巻き込まれたとき、もし本当に自分が感染していて、快斗まで巻き込んでしまっていたら、ゆいなはきっと自分のことを責めただろう。たとえ、快斗自身の意思で、傍にいてくれたのだとしても。
「危険なことが起こるたびに、自分勝手なエゴで、オメーを巻き込んだオレ自身が嫌になった。だから、今回はなるべくキッドから遠ざけようと思ったんだ」
「そんなの………私、やだよ…」
目の前が滲んで、ゆいなはたまらず快斗の胸に額を押し付けた。
快斗の優しさと、彼が笑顔の下にずっと隠していた苦悩を想うと、胸が苦しかった。
もう一度背中に快斗の腕が回る。
「何も知らないまま、快斗がどこか行っちゃうんじゃないかって、考えると、こわい」
「……うん」
「快斗が私のこと大事にしてくれてるのはわかってる。でも、遠ざけたり、しないで」
「うん……うん、ごめん、ゆいな」
快斗の頬が頭に押し当てられて、痛いくらいに抱きしめられる。息を吸う快斗の喉が、震えているのが分かった。
「ほんとは嬉しいんだ。ゆいながオレのこと分かってくれてるって思うと、何があっても頑張れるから。手放したくなくて、でも危険なことにも巻き込みたくなくて、中途半端に遠ざけるかんじになって…本当に、悪かった」
「……ばか…」
「オレのこと、知らなければよかったなんて思わないって、言ってくれて、ありがとな」
ゆいなはぎゅっと快斗のTシャツを握った。頑張って耐えていた涙が溢れて、彼の服に吸い込まれていく。頭の上でゆっくり息を吸う快斗も、もしかしたら泣いているのかもしれない。
しばらく抱きしめられた後、快斗が肩を掴んで、体を離した。泣いている顔を見られたくなくて俯く前に、彼の手のひらが優しく頬を包む。促されるままに見上げた快斗の瞳は、薄い膜が張って、きらきらと光っていた。
「これからは、オレの近くにいて、味方でいてくれるか?」
「うん。誰よりも快斗のこと、信じてるから」
「……っ」
肩を包むように力強く抱きしめられる。ゆいなも応えるように、彼の背中に両腕を回した。温かい彼の鼓動の音が心地よい。本当は、少しだって離れていたくない。そんなことを言ったら、重たい女だって笑われるだろうか。
快斗の手のひらが髪を撫でる。引き寄せられるように顔をあげると、思っていたよりずっと甘く優しい表情の彼がいて、ゆいなはたまらず目を逸らした。ちゅ、と額にキスをされて、途端に恥ずかしさで逃げ出したくなる。身体をもぞりと動かす前に、快斗が壁に手を当てて、いつのまにかしっかりと挟み込まれる形になっていた。
「なあ……ゆいなの全部が欲しい」
「ぜん、ぶ?」
「そ、全部。頭のてっぺんから爪先まで、心も身体も、ぜんぶオレのものになって」
「す、すごいこと言うね…」
「んだよ…こんな重いヤツになったのは、ゆいなのせいだかんな」
照れ隠しか少し頬を染めて拗ねた顔をする快斗が、いつもどおりに思えて、ゆいなは息を吐くように笑いを零した。歓びとも安堵とも言える温かさがじんわりと胸を満たす。
どうしようもなく、好きなのだと実感する。
気持ちが高揚していたというのは言い訳だけれど、ゆいなは少し背伸びをして、不機嫌に飛び出した快斗の唇に自身のそれを軽く重ねた。
「いいよ。全部あげる」
後から追いかけてくるような恥ずかしさがたまらなくて、快斗の表情を見る前に、すぐに視線を下ろした。壁に挟まれているから、誤魔化して逃げ出せないことに気が付き後悔する。快斗が黙ったままなのが居たたまれなくて、笑って空気を変えられる言葉を探していると、ふいに頬を掴まれて、噛みつかれるようにキスをされた。快斗の大きな手に捕まった右手が、火傷しそうなほどに熱い。音を立てるキスに続いて、柔らかい舌が唇を割ろうとして、ゆいなはたまらず快斗の胸を押した。
「ちょ、っと、快斗!ここじゃ、」
「わかってっけど、誰もいないし、ちょっとだけ」
「新一が戻ってきたら、っ」
「こねーよ」
低い声できっぱりと言い放った快斗に、その自信の理由を問う前に、また言葉を塞がれる。
いつもの快斗だったら、"からかっただけ"とすぐにイタズラっぽい笑顔をするのに。止まらないキスの中で薄目を開けると、溶けそうなほど熱く真剣な瞳とかちあって、ゆいなはたまらずぎゅっと目を閉じた。
その目が何を言っているのか、分かってしまった。こんなにも真っ直ぐな溢れんばかりの感情を受け止める術を、この熱い唇を受け止める以外、ゆいなには思いつかなかった。
「ゆいな、愛してる」
ぜってー離さないから。
そう呟いた快斗の言葉に、ゆいなは心の中でひとつ覚悟を決める。前から心に決めていたつもりだったのに、少しの不安で揺らいでいたのが本当に馬鹿みたいだ。彼は最初からずっと、ただ真っ直ぐに伝えてくれていたのに。
「……私も」
この優しくて寂しがりな怪盗さんの、誰よりも一番近くにいる。
これから先、どんなことがあっても、絶対に。
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