09
悔しそうな顔をしたコナンとチャーリー警部が会議室に戻ってきて、ひまわりはキッドに持ち去られたことを告げる。
キッドが館長に残したメッセージには、今夜100億ドルとひまわりを交換すると記してあった。
お金は日本一の財力を持つ鈴木次郎吉が用意し、見返りに美術館がひまわり展の開催に協力をするという交渉が成立した。怪盗キッドが金銭を要求するのは初めてのことだ。
「……ゆいな、本当にあれはキッドなのか?」
取引場所である帝都ホテルに向かう途中、二人きりになったタイミングでコナンが問う。
ゆいなは少し返答に悩んだが、素直に頷いた。
「…本物だよ」
「そうか」
コナンは考えに耽るように口を閉じる。ゆいなも同じように、考えを巡らせていた。
キッドが最後に見せた、あの表情。
その理由を、ゆいなはずっと考えていた。
無意識とはいえ、服を掴んでキッドの逃走を妨げることをしてしまったことに悲しんでいたのだろうか。
もしくは、心の中に閉じ込めていた言葉を、思わず口にしてしまっていたのかもしれない。
"行かないで"
そんな言葉、彼が困るだけだと分かっているのに。
「……新一はさ、」
「ん?」
「もし、蘭に全部バレた時は…どうするか考えてる?」
唐突な質問に、キッドのことを考えていたコナンが硬直する。オメーなんだよ急に、と眉をひそめたあと、ゆいなの表情を見て続きの言葉を止めた。
「……そうだな。巻き込まねーように、蘭の家からは出てくよ」
「蘭が行かないでって言っても?」
「……」
コナンが俯いて黙る。ゆいなは知っていた。彼のその沈黙は、肯定だ。
蘭のことを大切に思っている彼は、彼女を危険に晒さない一線を弁えている。距離をとることが最善の策なら、迷わず彼は実行するだろう。たとえそれで蘭がどれだけ泣いたとしても。
コナンはゆいなの顔を見上げ一瞬悲しそうな顔をすると、また視線を落として、ぽつりと呟いた。
「ゆいな、俺さ…アイツが考えてること、分かる気がすんだ」
「……」
「飛行船の時も、アイツがオメーのこと大事にしてるんだってのは…まあ…伝わってきたし」
「うん…」
分かっている。新一と同じように、快斗もまた最善の策を迷わずに実行できる人。
だから今の何も伝えられない状況が、きっと最善なのだろうと頭では理解している。理解はしているが、心が追いついていない。ただ、説明をしてくれるだけでいい。それだけで、あとは信じて待てるのに。
「でも、やっぱり黙って遠ざけられるのは、悲しいよ」
絞り出したゆいなの言葉に、コナンは俯いたまま何も答えなかった。ただその温かくて小さい手が、ゆいなの右手をきゅっと握った。
◇
ホテルの警備室で、ゆいなはコナンと共に、部屋の各所に設置された監視カメラの映像を眺めていた。
指定の時間は刻一刻と迫っている。お金はすべてベッドの上に置いておくこと、というキッドの指示のとおり、捜査二課の刑事が必死に札を積み上げていく。
「(目的はお金じゃない…何か他の理由があるはず)」
ゆいなはただ、キッドの意図が知りたかった。
キッドが返すと言ったのだから、ひまわりは確実に返却されるのだろう。しかし、いつものように"目的のものではなかったから"と返さずに、わざわざ場をつくるようなことをした理由を知りたかった。もしかしたら、そこに彼の悲しい表情の答えがあるかもしれない。
「もう時間がない、あとはそのまま置いておけ!」
あと5分、というところで中森が声をあげる。
部屋に一人残された館長が、額に溢れる汗をぬぐった。全員が時計をちらちらと確認する緊迫した空気の中、ゆいながひっそりとコナンに話しかける。
「ねえ…館長さん、汗かきすぎじゃない…?暖房ついてる?」
「いや、そんなはずは…なあ、何かさっきと何か違うところがないか?」
コナンに言われて、ゆいなは再度モニターを凝視する。間違い探しのように、思い当たるところをひとつひとつ確認するが、分からない。
しばらくじっと画面を見ながら黙ったあと、コナンがあっと声を上げて走り出した。
「ちょ…コナンくん!」
また説明もなしに走り出す彼を慌てて追いかける。エレベーター前で追いつくと、コナンの手にはいつのまにかマスターキーが握られていた。
「ゆいな、オメーまた…」
「お前たち、何か気が付いたのか!?」
追いかけてきたチャーリー警部に、コナンが感じたという違和感を説明する。
監視カメラに写っていたペットボトルの水位が最初に見た時より上がっていた。つまり、部屋の気圧が意図的に高くなっているのだと言う。それはおそらくキッドの意図だろうと。
その目的は分からないが、気圧を元に戻さないと、とコナンがドアを開けようとするが、マスターキーを差しても扉はびくともしなかった。
「あと5秒だよ、」
「くそっ!」
ゆいなが時計を確認する。チャーリーが悪態を吐きながら一際強く体当たりをしたのと同時に、部屋の中でガラスが割れる音が響いた。同時に突然開いた扉に、もつれ込むように三人は部屋に転がり込んだ。
引っ張られるような強い風圧に、ゆいなは思わず膝をついた。ベッドに置かれていた札束が巻き上がり、嵐のように視界を覆う。割れた窓ガラスから紙幣が空へと舞い上がっていくその向こう側に、夜の闇にすらりと浮かぶキッドの姿があった。
「……キッド!」
強い風の音の中で、カチャリと聞き慣れない音がして顔をあげると、隣にいたチャーリーの手には、先ほどまで彼が所持していなかったはずの拳銃が握られていた。
「…っ、ちょっと待って!」
ゆいなが声を上げる前に、チャーリーがその引き金を引いた。
鋭い発砲音が響き渡ると同時に、宙に浮かんでいたキッドの姿はなくなっていた。
紙幣が次々と、夜空に吸い込まれるように割れた窓ガラスからばら撒かれていく。
「…だめだ、ゆいな、危ない!」
窓に近付こうとしたゆいなの手を、コナンが掴む。耳の奥で心臓の音がひどくうるさい。指先がどんどんと冷えていく感覚がする。
コナンに手を引かれるまま座り込んだゆいなの耳元で、彼は「当たってない」と囁いた。
「………ほんと?」
「ああ」
ほっと息を吐くと、指先がかたかたと震えた。ぎゅっと両手を握り込むが、収まる様子がない。コナンがそっとその上に手を重ねてくれた。
これまでも快斗の身に危険なことが起こったことはあったが、目の前で発砲されるところを見てしまったのは初めてで、彼がどれだけ命の危険があることをしているのかを身をもって実感してしまった。
怖い。
自分の知らないところで、知らないうちに快斗がいなくなってしまうのではないか。ひまわりに関する一連の事件の中、ずっと感じていた言いようのない不安が、明確な事実として迫ってくる。
ゆいなの震えは、しばらく止まることはなかった。
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