"残業?"

控えめな振動と同時に、スマホのホーム画面に浮かんだ短い言葉。言葉の横に表示された、降谷零、という名前に心がそわりと浮き足立つ。私はロックを解除してLINEを開く。

「そ、う、だ、よー」

独り言をこぼしながら、同じ言葉を文字にする。白い子犬が泣いているイラストに、ポップな文字で「ぴえん」と書いてあるスタンプも付け加える。ぴえん、なんて、アラサーの私は恥ずかしくて口に出来ないのに、スタンプだったら使えてしまうから不思議。
今日はすぐに返事がある気がして、トーク画面を開いたままにしていると、予想通りすぐに返事が浮かんだ。

白い子犬がお茶を差し出してるイラストに「おつかれさま」の文字。先程私が送ったスタンプと同じシリーズ。降谷くんの飼っている子犬に似ていたから、私がプレゼントしたもの。
この可愛いイラストがずらっと並んだ中から、どれを使おうかな、と悩んでいる降谷くんの様子を思い浮かべて、思わず微笑んでしまう。なんてかわいいんだ。

私もスタンプで返そうかな、と思っていると、また画面が変わる。珍しい、連続スタンプ。
ぴえんと泣く子犬。
先程私が送ったスタンプと同じものだった。降谷くんが、ぴえん。あの降谷くんが。

「ふふ……」

思わず声に出して笑ってしまう。オフィスに残っているのが私だけでよかった。

私の席の周りだけついた蛍光灯。夜の街を映す窓ガラスは、ひとりぼっちの私の姿を反射していて、なんだか孤独に吸い込まれそうだった。オフィスがいつもよりずっと広く感じられて、カチカチとマウスを押す音が、昼中はまったく気にならないのに、ひどく大きい気がする。自分の意思で会社に残っているのに、実はさっきまで、なんだかちょっと泣きそうだった。

「降谷くんはエスパーかなあ」

LINEのスタンプひとつで、ひとりぼっちの寂しさがどこかに吹っ飛んだ。よし、あと30分。もう少しだけ頑張ったら、降谷くんに電話してもいいだろうか。


「……びっくりした」

社員証を通してオフィスを出ると、目の前に白いRX-7が止まっていた。灰色のスーツを着た降谷くんが車にもたれかかって立っている。おつかれ、と笑う彼の金色の髪が夜の闇に眩しい。

「降谷くん、どうしたの!?」
「待ってた」
「もしかして、ずっと…?ごめん、言ってくれれば」
「いや、僕も車の中で仕事済ましてたから」

降谷くんは当たり前のように私の手から鞄を奪うと、助手席のドアを開けてくれる。
送っていくから乗って、という彼の申し出を遠慮して何度か断っていたら、いつのまにか彼はこういうエスコートをするようになった。こんな大切にしてもらえるような女の子じゃないんだけど、と恥ずかしくなるけれど、大人しくされるがまま助手席に座る。
私の鞄を後部座席に置いたあと、降谷くんがエンジンをかける。
もう時計の針は22時を回っていた。FMの学生向けの番組がラジオから流れる。あ、これ、受験勉強の時によく聞いていたやつだ。あの有名な映画のタイトルと同じ番組。降谷くんも聞いてたかな。

「……さっきのLINE」
「え?」
「僕が送ったやつ…引いたか?」

予想外の言葉に、ラジオの話題を出そうとしていた私は返事につまる。
アクセルを踏んだ降谷くんはもちろん前を向いているけれど、対向車線の車のヘッドライトに照らされて、その耳が少し赤いことが分かってしまった。
なんだ、ぴえんに、照れてるのか。

「ふふ…っ」
「…笑うなよ」
「だって…ふふ、送った後で恥ずかしくなっちゃったの?」
「…そうだよ。スタンプなんてゆいなにしか送らないから、テンション間違えた…」

子供みたいに不貞腐れたような顔をする降谷くんがとてもかわいい。そっか。スタンプ、私にしか使わないんだ。私が贈った子犬のスタンプしか、もしかしたら彼のレパートリーにはないのかも。

「貴重だね。スクショしておこ」
「やめてくれ」
「ふふ。降谷くん、かわいい」
「……返事がないから、引かれたのかと」
「あ、ごめん。なんかLINEもらったら、やる気出てきちゃって」

ぴえん、で終わっているトーク画面。会社を出たらすぐ電話しようと思っていたから、返事を返していないのだった。降谷くんが恥ずかしくなりながら返事を待ってるのを想像したら、思わずにやにやしてしまった。その30分間は、きっと私のことで頭がいっぱいだったんだろう。そうだといいな。

「……こら、ニヤニヤしない」
「あれ、バレた」

降谷くんがちらりと私を見て、こっそりにやにやしていたはずが、すぐにバレてしまった。

「夕飯はどうした?」
「軽くおにぎりひとつ。降谷くんは?」
「僕はまだ…ゆいなの家で、何か食べてもいいか?」
「お茶漬けとかカップスープでいい?」
「ああ」

今日は泊まっていけるのかな、と聞きたくなったけれど、やめた。降谷くんのいいようにしてくれたらいい。すぐに帰らなきゃいけない場合に「ごめん」と謝られるのがなんだか寂しいから。

会話が止まったタイミングで、ラジオからカーペンターズのYesterday Once Moreがかかる。車通りの少ない道路に、テールランプの赤い光が流れていくのを眺めていると、なんだかこのままどこか遠くへ行けるような気がした。光を沈めた街並みは昼間とは様子がまったく違っていて、知らない街を走っているみたいで、切なさと開放感が入り混じったなんとも言えない気持ちになる。曲をじっくり聴きたくなって、そっと目を閉じた。

「……突然来て迷惑だったか?」

降谷くんの声は控えめだった。

「え?なんで、うれしいよ」
「そうか…どうしても今日、会いたくて、さ」

私はびっくりして目を開ける。忙しい降谷くんが、どうしても、なんて使うのは珍しい。
さっと血の気が引く。何かあったっけ。誕生日、じゃない。記念日も違う。じゃあ何か重要な話?転勤とか。潜入捜査の関係で長期間連絡が取れなくなるとか。
別れなきゃいけなくなった、とか。

「…ごめん、何か、あったっけ」

嫌な想像しか出来なくて、私は少し震える声で尋ねる。
ちょうど赤信号で車を停めた降谷くんが、ぱっとこちらを向く。しまった、顔から緊張をしまう時間がなかった。なんでもないような余裕のある顔をしていたかったのに。私はどうにかして口角をあげてみた。ああ、だめかも。
降谷くんは、少し目を見開いた後、困ったように眉を下げて目を細めた。彼の左手が伸びてきて、私の頬を包む。

「……そんな顔するなよ」
「……ごめ、ん」
「はあ…いや、僕こそ悪かった。そうだよな…」

降谷くんには、私が考えていたことが分かったようだった。青信号になって、また車を走らせた降谷くんは、すぐに大通りから曲がった路地裏の路肩で車を停めた。
シートベルトを握りしめて降谷くんの言葉を待ち固まる私をよそに、降谷くんはかちゃりとシートベルトを外し、助手席の背もたれに腕を乗せて身を乗り出すと、私に覆い被さるようにキスをした。

「……ふるやく、」
「……ただ、どうしても会いたかっただけ…なんだけど」
「……え?」
「ゆいなの顔が、どうしても今日、見たかった」

それだけだよ。
降谷くんは困ったように笑って、私の頬を両手で包む。暗がりの中でも、微笑んでいる降谷くんが照れているのが分かってしまって、つられて私自身の熱も上がる。
もう一度キスが降ってきて、離れた唇が「たまにはいいだろ、我儘を言っても」と呟いた。


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