「ひとりで着れないなら、最初から言えばいいのに」

背後から聞こえた声に、ぴくんと私の肩が跳ねる。
にらめっこしていた姿鏡から視線を外して振り向くと、襖を少し開けて顔をのぞかせた快斗がいた。相変わらずのくるくるの黒髪なのに、落ち着いた濃紺の浴衣を着ている姿は、いつもと違って大人っぽくてどきりとする。それを悟られないように、にやりと笑った快斗をひとにらみ。

「……着替え中。男子禁制です」
「待ってたらちゃんと着れるのかよ?」
「着れますよーだ」

私はケータイの画面を見せつけるように腕を伸ばす。ちゃんと調べながら着てるんだから。ただちょっと、鏡を見ながらだと左右がよくわからなくなってしまうだけなんだから。決して私が不器用だったり頭が悪いわけじゃない。決して。

「ゆいな、早くしないと花火始まっちゃうぜ?」
「もう、わかってるってば」
「あ、それ手が逆」
「………」
「俺、やってやろうか?」

鏡の中に夢中になっている隙に、いつの間にか部屋に入っていた快斗が、私の腰を掴んで鏡越しに目を合わす。にこり、と善意の塊みたいな笑顔に悔しくも首を縦に小さく動かすと、お任せあれお嬢様、と低く囁いて私の耳に唇を寄せる。くそう、赤くなんてなってやるものか。

「……ちょ、なんで解くの!」
「ちゃんと最初から綺麗に着ないと気崩れるだろ」
「でっ…だ…だめだめ!わかった、ちゃんと合わせるから!ちょっと向こうむいてて!」

腰紐を解いて、浴衣の前を開こうとした快斗の手を慌てて押さえつける。さすがにそれはまずいので、必死に声を荒げると、ちえっと残念そうに呟いてあっさりと離れる快斗。その隙に背中を向けて、さっき調べた通り、上にする方を間違えないよう、折り目が綺麗になるように合わせる。
よし、と振り向こうとしたとき、ひやりと何かがうなじに触れて、思わず変な声が出そうになり、慌てて口を抑える。

「髪、アップにしてるとなんかえろいな」
「……快斗、わざとやってる?」
「なーに、ゆいなちゃん、どきっとした?」
「……っ、もういいから、はやく」

床に投げ出した紐を取り上げて、快斗が私の前に回りこむ。膝をついて見上げられて、いつもと違う眺めに少しならず緊張する。紐を回すために、抱きつくようにぎゅっと背中に手を回されて、きゅっと紐を結んで、「苦しくない?」とまた見上げて。どきどきしてるのが私だけだったら、かっこ悪いなあ。

「……えっと」
「ん?」
「ゆいな、こっから浴衣の中に手を入れて、で、皺を伸ばすかんじに下にとんとんって」
「えっと、こう?」
「そーそー。さんきゅ」

そうしてまた私の背中に手を回す。
快斗だったら、平気でさっきのように浴衣の中に手をいれてきそうなのに、とぼんやり不思議に思って視線を落とすと、俯いて見えない彼の顔だけれど、耳がうっすらと赤くなっていた。
なんだ、ドキドキしてるの、私だけじゃないんだ。
嬉しくなって、ばれないように微笑む。「帯結ぶぞ」ぱっと顔をあげられて、慌てて口元を引き締める。背中に回った快斗は、びっくりするくらい手際良く、新品で硬い帯から綺麗な形を作ってゆく。
それにしても、女物の浴衣を着付けられるなんて、やっぱり快斗は器用すぎる。

「うし、完成!」

ぽん、とお尻を叩かれたから頭を叩き返すのを忘れずに、姿鏡の前に立つ。
快斗の手によって着付けられた着物は、折り目や合わせ目が綺麗にまっすぐで、美しい線を描いていると思った。帯も、私がやろうと思っていた結び方よりも複雑そうな結び方で、自画自賛だけど、大人っぽい雰囲気が出ているのではないかと思う。
お礼を言おうと振り向く前に、後ろから快斗が私の両肩を掴んで、鏡越しに私の目を覗き込む。

「綺麗だよ」

いつものからかうような言い方ではなく、真剣な声と瞳に、私は言葉を詰まらせた。
目を逸らすことも出来ず、見つめあったまま、私の体温だけがどんどん上昇していく。

「かい、と」
「すっげえ綺麗」

今度はにこり、と笑って、所在なさげに彷徨っていた両手をつかむ。
右手の甲に優しいキスを落としてから、首筋に唇を寄せる。ちゅ、と可愛らしい音がして、ぴくりと肩を震わせれば、くすくすと嬉しそうに笑う声。

「…花火はじまっちゃう」
「うん……じゃあ、一回だけキス、させて」

ふわりと重なった唇に目を閉じると、遠くで花火の上がる鮮やかな音と、嬉しそうな人々の歓声があがった。
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