私の目の前から彼が消えて、一年が過ぎて、それからはもう数えるのをやめた。

キッドのいない日常というのはあまりにも正常で、開かれることのない夜のカーテンは当たり前のように私の部屋を閉ざしていて。私がやっとそれを開く決意が出来たのは、実家を出る時だった。空っぽのベランダの柵の向こうに、ぽかんと宙に浮く満月がなんだかとても間抜けに思えた。
遮るもののない夜の闇は、私が思っていたよりもずっとずっと広くて、美しくて、そして少しだけ恐ろしくて。
そしてその時に悟ったのだ、いつも美しい月を背にして、夜の闇から私を切り離してくれていた男は、もう永遠に此処には来ない。
その優しくも儚い微笑みと、悲しい懺悔を口にする、黒羽快斗という男が私に触れることはないのだと。

そして、私が町を出るのと同じ頃に、怪盗キッドは、世間から消えた。


「七夕祭やってるけど、行ってみたら?」

母の提案に乗って、一人でふらふらと懐かしい道のりを歩く。初夏の夜の空気はひんやりとしていて、吸い込んだ胸の中にあるもやもやとした何かを、綺麗にしてくれるような気がした。踏みしめる緑の香りと、遠くにぽつぽつと灯るオレンジ色の光。夕飯の肉じゃがの匂いと、子供の声。
都会は生きづらいところなのだと、この町を出て初めて知った。
ひしめき合うビルは私を押しつぶそうとしているような気がしてくるし、いつも誰かに喉元を絞められているような気がしてしまう。

ぎゅうぎゅう押しつぶされて締められて、窒息してしまいそうになった時に、私の頭に浮かぶのは、ずっとずっと高いところで輝く月の光。
ビルの隙間から覗く淡い光が見えたとき、私は息を吹き返すのだ。


結局、私の目の前からも世間からも姿を消した怪盗キッドは、未だに私の心を溶かさないまま。

懐かしい雰囲気の残る神社の入口には、瓦屋根よりも高い笹の葉が飾られていた。色とりどりの短冊と、子供が作ったであろう飾りが、とても懐かしくて胸を締め付ける。私も作った。昔、ずっと小さい時。

この瓦屋根の下の机で、隣で書いていたくしゃくしゃっとした頭の男の子が、自慢げに短冊を見せてくれたんだったっけ。なぜだかその内容まで覚えてる。

せかいいちのマジシャンになれますように

彼の夢は叶ったのだろうか。
私は、いったいなんて書いたんだろう。

「快斗」

飲み込まれそうな人混みの中で聞こえたその言葉に、途端に私の心臓は動くのをやめた。
時が止まってしまったように、頭の中が真っ白になって、呼吸の仕方を忘れた。月を探す前に私は辺りを見回した。

快斗。

その名前を、名前だけを、私は知っている。
一人ぼっちの暗闇の中で私を抱きしめたあの夜を、最後に触れた唇を、私は覚えている。

彼が呼んで欲しいと言って、私が最後まで呼ばなかった名前。

誰かの声で聞いた彼の名前は、私が想像していた以上に私の胸を締め付ける。

快斗、快斗、快斗。

彼が頑なに黒羽快斗だと言い張った理由。
私が頑なにキッドだと言い張った理由。

きっと彼も私も理解していて、理解していたから私たちは別れたんだ。
だけど、今こんなにも胸が騒ぐなんて、もう二度と彼に会うことはないと思っていたのにこんなにも会いたいと思ってしまうなんて、私は理解できていなかった。


探せるだろうか。
黒羽快斗から目を逸らし続けてきた私が、今更彼のことを見つけ出せるだろうか。

たくさんの人ごみの中で、止まってしまいそうな呼吸のままで、わたしはひたすら、見たこともない彼の姿を探す。
肩がぶつかって、足を蹴られて、何かで腕を擦って、それでも人の波に飲み込まれないように必死にもがいて、もがいて、気がついたら河原にいた。
上流の川が少し細くなって、渡ろうと思えばサンダルのまま入って渡れるような川。
空を見上げた、薄い雲に覆われた月があった、やっと呼吸を思い出す。
はあ、と息を吐き出して、私はその場にしゃがみこむ。

「……ばかみたい」

いまさら、今更向き合いたいと思っても、泣いたあの夜は消えてはくれないのに。
ぽろぽろと涙が落ちて、乾いた石を染めた。
その石を川に投げ入れてしまおうと顔を上げた時、ぽーんぽーんぽーんと放射線状に石が飛んできて、私の少し離れたところに着地した。

もっと顔をあげる、川の向こうに目を凝らす。

「せっかくの逢瀬の日に、涙なんて似合わないですよ、織姫様」

姿なんて知らない。
だけど私には、彼がくれた情報と決して忘れることができなかった、優しい声が残っていた。
懐かしい、それでも初めて見る青年は、私に向かってゆっくりと微笑みかける。涙で目が霞んで、川に映り込んだ街の明かりが、まるで星の光りが集まった、天の川のように見えた。
ばしゃばしゃ、彼がその天の川に足を踏み入れて、私に手を伸ばす。私もその手を掴もうと、天の川を渡る。

「………快斗っ!」

呼べた。
やっと、呼べた。

川の真ん中で、私の手を握った快斗は、そのまま私を引き寄せて、胸に閉じ込めた。
最後に会った時よりも少し背が伸びていて、逞しくなっていて、もっともっと温かかった。

「やっと、やっと俺で会えた…ゆいな……見つけてくれて、ありがとう」
「…快斗….っ」

私は何度も何度も快斗の名前を呼んだ。
ずっとずっと口に出来なかった時間を埋めるように、何度も、何度も。

冷たい星の海

(はじめまして、とおどけて笑う彼)
(ゆっくりと私の心は溶けて、星々のようにきらきら輝いてゆく)
20120707
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