人というものは、不安定に陥りやすい生き物だと思う。いや、それが人というものなんだろうか。
思い悩むのも、寂しくなるのも、苦しいのも、人間だからの一言で片付けられたらどれだけ楽なことなんだろうか。
とにかく、オレは、街頭の明かりがオレンジに石畳を照らす、冷たい闇に染まった街を見下ろした。
せわしなく人が行き交うセントラル。その反面、携えた空気は、ひっそりと息を殺して、今まさに来ようとしている夜に備えているみたいだ。
オレは、ぎゅっと目を瞑って、冷えたガラスに両手を添えた。
だめ、だな、今日は。
「・・・・・兄さん?」
ベッドの上で本を読んでいたアルが、不思議そうにオレを呼ぶ。
重たい金属が軋む音がして、その音がオレの胸を締め付けるのが分かった。
前へ前へと進もうとしても、時々体が凍ってしまったように動かなくなってしまうことがある。
それは、弟には言えなかった。そんな弱いところを見せられない。
「どうかした、兄さん」
「いや・・・ちょっと、コーヒーでも飲んでくる」
「・・・・・・うん」
苦し紛れに言った言葉を、アルは何も言及せずに受け入れてくれた。
ルームサービスを頼めば、なんてことは言わない。もしかしたら、全部分かっているのかもしれない。
フロントに下りると、街頭よりももっと暖かな光で溢れていて、にこにこと笑っている人たちが居て。
それなのにオレの心は冷たくて、誰も見ていないから、と思って少し顔を下に向けた。
どうだろう、今の顔は、情けないかもしれない。
「・・・!」
りんりん、と軽快な音で、フロントに置かれた電話が鳴る。
何故かその音にびっくりして顔を上げた。見慣れた顔のフロント係が、受話器を取って何事が頷いている。
そうだ、電話しよう。あいつに。あいつの声が、聞きたい、
オレはポケットに小銭があるのを確認して、電話ボックスを探すために重たいドアを開けようとした。
「エルリック様!」
フロント係の声が飛ぶ。オレは驚いて、ドアノブに手をかけたまま振り向いた。薄く開けたドアから、冷たい風がオレの頬を撫でる。
彼は受話器を頭上に上げて、なんだか少し嬉しそうな顔をして言った。
「お電話でございます。ゆいな・香村様から」
「もしもーし、エド?」
「・・・・・」
「もしもし?エードくん?」
「・・・・なんでここが分かったんだ?」
「さて、愛の力ってやつじゃないですかね」
けらけら、と電話の向こうで笑うゆいなの声が、オレの耳をくすぐる。
さっきまでオレが思い悩んで、こいつに電話をかけようとしていたことなんて、まったく知らないみたいに。
「どっからかけてんの?」
「さあ」
彼女は陽気で、あったかい声で答えた。からかっているんだ。
「元気?アルは?」
「あのさ、今どこにいんの?」
「どこって、そりゃあ、ねえ」
「・・・・会いに行く」
ゆいなが、そっと息を呑んだのがわかった。
会いに行く、なんて、会いたい、と言ったようなものだ。少なくとも、オレはその気持ちを込めて言った。
伝われ、伝われ、としばらくの無言の間祈るように思っていると、ふ、と電話口の彼女が笑った。
「ホテルを出て、右に曲がって、交差点の角のパン屋の前」
夜を迎え入れた街は、街頭と家の明かりだけを抱え込んで、海に沈んだみたいに空気に沈んでいた。
その真ん中で、切れそうな電球の明かりの中で、彼女が佇んでいた。
古びた電話ボックスで、受話器を握り締めたまま、チェックのコートを着て。
オレがその透明なガラスを押し開ければ、彼女はがちゃんと受話器を置いて、にこりと微笑んだ。
「来ちゃった」
電話線を通したものじゃない、本物の、声。
オレはそこにあるぬくもりを奪い取るように、彼女の体を引き寄せた。
「・・・・なんで、」
安心感と寂しさと、色々な気持ちで潰れてしまいそうな心でなんとかそう喉を震わせれば、彼女はくすくすと笑った。
その振動が、オレの心も一緒に揺らす。どうしようもない感情が、溢れ出して波を起こす。
「なんか、エドが私のこと呼んでる気がしたんだよね。だから、来た」
「どこぞの英雄かよ」
「えへへ。そうかも」
抱きしめる腕にいっそう力を入れれば、彼女の冷たい手のひらがオレの頭を撫でた。
冷たいその温もりが、海に沈んだ街を、オレを、助け出してくれているみたいだった。
さっきまでひっそりとして無機質だった街に、生き物の息遣いを感じることができた。水から出て、息をしているのだ。
彼女の熱を奪って暖まっていく心臓が、ゆっくりと拍動する。
助かった、そう呟いたオレの声を拾い上げたのか、ゆいなが優しく笑った。