ゆいなは、その怪盗の正体を知っていた。

知る、と言ってもその意味は、ただ“知識”として知っているというだけだ。
黒羽快斗という名前で、江古田高校の2年生。成績優秀でクラスの人気者、らしい。
容姿はなかなかのもので、チョコレートアイスクリームが好きで魚が嫌い、だそうだ。
どの情報も正確さに欠いているのは、ゆいなが黒羽快斗と面識がないからであった。

何故なら、これらはすべて、その怪盗の口から語られただけの真実であったから。


「よーっす」

夜の闇には似合わない間の抜けた声がベランダから聞こえて、ゆいなは開け放ったままの窓にゆっくりと近寄った。
ハングライダーを広げたまま、手すりにバランスよくしゃがんだ状態で、キッドは片手を挙げてにやりと笑う。
ああ、また今夜も。
ゆいなは心の中で呟きながら、彼を部屋の中へと招きいれた。
靴をちゃんと脱いでベランダに並べたあと、キッドは馬鹿丁寧に綺麗なお辞儀をした。

「今晩は、お嬢さん」
「こんばんは。それで、キッド。今夜は何の話?」
「レディはせっかちだから困るなあ。さっきばかし終わった仕事の話とかは?」

キッドはにやりと笑って、ポケットから紫色の大きな宝石を取り出した。
中まで透き通ってキラキラと輝くその美しさに、ゆいなは思わず触りたくなったがやめた。
指紋がつくのはごめんだと思ったのだ。
そんなゆいなの仕草に気がつくと、キッドは「利口だな」なんて笑いながら、その宝石を高く掲げた。
空に浮かぶ満月。キッドは決まって月の綺麗な夜にしか現れない。
紫色の宝石が、丸い月に重なる。美しい光を放った石。キッドはしばらくそれを見つめて、静かに憂鬱そうなため息をついた。

「キッド・・・?」
「ああ・・・・今回も、目当ての宝石じゃ、なかった」

握り締めた宝石に視線を向けながら、伏目がちにキッドが切なそうな笑いを零す。
儀式のように何度も繰り返されるこの行為の理由が、唯一彼女が彼に対して知らないことでもあった。
本当に今まで語られてきたことが真実で、彼のすべてかなんて分かりはしなかったが、ぺらぺらと何でも喋るキッドが避けている話題であるのは確かだった。
そしてその答えが同時に、この奇妙な自己紹介の終わりを意味していることを、ゆいなはうすうす感づいていた。

「あー・・・また返しにいかなきゃなんないなあめんどくさい。ゆいな、代わりに行ってくんねえ?」
「馬鹿なこと言わないでよ。それよりキッド、」
「快斗」
「え?」

紫色の石をポケットに戻した手が、そのままゆいなの肩に触れる。
モノクルの奥で、綺麗な青色の瞳がゆっくりと細められる。同じようなスピードで、彼の顔が近づく。
ゆいなの耳元で、夜の空気に吸い込まれて消えそうな、低くて小さな声が囁かれる。

「快斗って呼んで、って言ってんじゃん」
「・・・・・・・キッド」
「快斗。オレは、黒羽快斗だ」
「・・・・呼べないわ。だって、わたし、黒羽快斗に会ったことがないから」

はっとしたように、一瞬見開かれる青い瞳。
次の瞬間には、もう片方の腕が腰に回っていて、そのまま強い力で抱きしめる。
甘さなんて微塵もない、ただ力を込めるだけの、すがるような抱擁。
それが肯定も否定もしない返答のように思われて、ゆいなはキッドの肩口に顔を埋めてゆっくりと息を吸った。

「キッド、あなたは何がしたいの?」
「・・・・・・・オレは、」
「わたしに自分の素性を話して、それで、どうしたいの?」

まるでインターネットで調べ上げたような、形式的な情報。
画面の向こうのアイドルを追いかけるような、現実味を伴わない情報。
どれだけ自分の正体を細かく説明したところで、決してその白い衣装を脱ぎ捨てることだけはしなかった。
ただの高校生に戻ることだけは決してしないのに、ただの高校生だと言い張り続ける。
言葉の上だけでの告白。中身を伴わない、告白。
それはまるで、毎晩繰り返される懺悔のようでもあると、ゆいなは感じていた。


密着しているせいで、キッドの心臓の音がはっきりと感じ取ることができた。
彼は、人間だ。ぬくもりもあるけれどその分寂しさも抱えている人間だ、少なくともそれは分かる。
ゆいなはそう思いながら、目を閉じ、彼の背中にそっと手を添えた。
そのまま上へ滑らせて、シルクハットの端を持つ。抱きしめる彼の腕の力が、痛いほどに強まった。
それは、外してくれるな、という無言の抵抗だった。
ゆいなが薄く目を開けたのと、キッドが薄く息を吐くのは同時だった。


「オレは、黒羽快斗なんだ。キッドじゃない」
「・・・うん」
「だけど、キッドなんだ」


まるで自分に言い聞かせるような声に、ゆいなの胸が強く締め付けられる。
黒羽快斗を否定しているのは自分なのに、彼の言葉に対する答えが見つからない。
そう思って黙り込んでいると、すっと体温が静かに遠ざかる。
ゆいなが彼の表情を見ようと顔を動かしたとき、認識できないほど一瞬、唇にあたたかいものが重なった。
とても優しく、触れるか触れないかの口付け。

「・・・っ、キッド、」

彼女が言葉を漏らした時にはすでに、怪盗キッドの姿はそこには無く、手なんて届くはずのない距離で月が輝いているだけだった。
ゆいなはそっと指先で唇に触れた。途端に一筋の涙が頬を伝ってぽとりと落ちる。
彼の唇が確かに触れた場所を、ゆっくりとなぞる。
そのたびに、涙がとめどなく溢れて、溢れてとまらなくなった。

冷たい呼吸


そこに残されたあたたかいはずの体温は、ひどく切なくて、寂しいものだった。


(結局あなたは秘密を残したまま、居なくなってしまった)
(解けない謎は永遠に、わたしの心を溶かさないまま、)
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