午前1時。彼女のコーヒーメーカーのランプが、ピーと小さな音を鳴らして消えた。
どうやら、長時間放置すると自動的に電源が切れるらしい。
この機械はすぐれもので、温泉卵までもが作れるそうだけど、おっちょこちょいな彼女には安全で便利な代物のようだ。
オレは、壁にかかっている時計に目をやった。
時間なんて見る前から分かってる。だけど、もしかして俺の勘違いだったらいいな、なんて。
「そろそろ、帰る、な」
いつだって、そう切り出すのは俺の役目。
ゆいなはちらりと寂しそうな表情を見せたあと、うん、と可愛らしく笑った。
この表情が辛くて、俺はいつだってこの言葉を消してしまいたくなる。
だけど、俺たちは学生で、明日も朝早くて、なんだかひどくもどかしい距離があって。
ベランダから飛び立たなくていいのなら、どれだけ気持ちが晴れるのだろうと、いつも考える。
「じゃ、ありがとな、ゆいな」
「気をつけてね」
感謝の気持ちを込めて、もう一度抱きしめると、ゆいなはうれしそうに笑ってくれた。
ありがとう、というのはコーヒーのお礼もあったし、それよりも彼女がこんな俺を受け入れてくれたことへの言葉だった。
こんなにも彼女にすべてを受け止めてもらっているのに、俺はまだ、自分の正体を明かせない。
これだけ素を出していたら、明かしたようなものかもしれないのだけれど、俺の中には越えてはならないある一線があって。
俺がどこの誰かということを伝えることが、どうしてもできない。
「(・・・・俺のエゴなんだけど)」
彼女を危険なことに巻き込みたくないというのも、もちろんあるけれど、それよりも俺のちっぽけな願いのせい。
ゆいなが俺をキッドとして見ていてくれる限り、それが俺がキッドである理由になるから。
当てのない虚しいこの怪盗という存在を、正当化してくれる彼女。
この仕事が嫌になって虚無感に襲われても、俺を怪盗で居続けさせてくれる。
たぶんキッドは、彼女に必要とされなくなったときに、消えてしまうから。
だから、目的が果たされるまでは。
「・・・・・・さっきの話なんだけどさ」
とん、とベランダの柵に乗りながら話しかける。返事をしたゆいなからは、俺の顔は見えないはずだ。
見られたら困る。多分今、俺は悔しくて泣きそうでだけど泣けなくて、すごく奇妙な顔をしているだろうから。
「必ず、本物の俺として、迎えにくるから」
「・・・・・うん」
「すべてが終わったら、必ず」
「大丈夫、いつまでだって待ってる」
気配で、ゆいなが笑っているのが分かった。胸がきゅっとなって、ちょっとだけ目が潤んだ。
こんなに好きなのに、今すぐ振り向いて、もう一度抱きしめて、部屋に戻りたいくらい好きなのに。
俺はまだ一度も、快斗、と名前を呼んでもらったことがない。
彼女の可愛らしい声で紡がれる俺の名前ってどんなかんじなんだろうと、俺はよく想像をして、その度に幸せでくらくらして同時に苦しくなる。
学校帰りに彼女を迎えにいって、一緒にファーストフードを食べて、映画を見て公園を散歩して。
そんなことが出来たのなら、きっと今以上に幸せで、幸せでどうしようもなくなってしまうだろう。
だけど、もう少し、あと少し。
俺がキッドであるために、もう少しだけ。
「またね、キッド!」
夜空を滑る俺に向かって、ゆいなが大きく手を振ってくれる。
俺はそれに振り返して、今日も彼女の笑顔を脳裏に焼き付けようと、少しだけ目を閉じて風を感じた。
永遠に
俺の名前を呼んでくれる日が早く来ますように、と俺は心の中で眼前で輝く月にお祈りをした。