午後11時。最近買ったばかりのコーヒーメーカーの電源を入れる。
ぱちん、とスイッチ横の小さな緑色のランプが光って、こぽこぽという心地よい音が溢れ出す。
この機械はすぐれもので、紅茶だって淹れられるし、なんと温泉卵だって作れるのだ!
なけなしのバイト代をはたいて買ったものだけれど、私は充分に満足をしていた。
コーヒーだって、彼と出会ってから少しずつだけど飲めるようになってきたし。

そんなことを考えながらも、やっぱりいつものように自分用に砂糖とミルクを用意していると、こつんこつん、とガラス窓を叩く音。
どきんと胸が高鳴った私は、自分でも驚くぐらい素早く立ち上がってベランダに向かった。
ひきっぱなしになっている、薄緑色のカーテンを引っ張る。なんでカーテンをしているかって?それはもちろん、知らない間に彼に見られていたら恥ずかしいからさ!
隙間から序所にレモネードのような淡い光が差し込んで、見上げれば真ん丸い月が夜空の中央を陣取っていた。
そしてそれを従えるように背後に携え、ベランダの柵に寄りかかって微笑んでいる、白い怪盗。


「ちょっと、まって」


窓の鍵を外すのにもたもたして、ちょっともどかしい間が流れる。
彼が私をじっと見ているのが分かって、耳まで熱くなりそうになる。馬鹿か私なんで外しておかなかった。


「キッド、」


やっと、と思いながら窓を開けると、ふわりと風が吹いて彼のマントがたなびいた。
無意識にそれを目で追った瞬間に、今度はあたしの体がふわりと何かに包まれる。理解するのに数秒かかって、ああそっか彼の腕の中だ、なんて思った途端に頭がくらくらした。


「会いたかった、ゆいな」
「キキ、キッド!ちょ・・・とりあえず中入ろうか!」


私が彼を無理やり引き剥がす、というかもうそのまま引きずって中に入ろうとすると、ちぇ、と可愛らしく呟いて彼は靴を脱いだ。
なんだかその姿が、世間を騒がせている怪盗のイメージとは掛け離れていて、私は思わず笑いを溢してしまった。

「・・・なんだよ」
「べつにー。コーヒー淹れておいたよ」
「お!さんきゅー!くそう・・・今日も疲れたー」

キッドはシルクハットを取ると、私のベッドの上に投げて、ラグの敷いてある床にどかりと座った。
マントが皺になるよ、と私が言うと、あーまあいいや、と適当に答えながらモノクルを外す。
前に聞いたけど、あれってかけていると結構疲れるらしい。
彼はそれを机の上に置くと、ネクタイを緩めながらあー・・・と唸り声を上げる。仕事帰りのおっさんか、と突っ込みたくなるけれど、彼はこれでも高校生だ。

「はい、お疲れ様です。ビールじゃなくてごめんねー」
「んだよ、親父っぽいって言いてーのかよ」
「はいはい」

むすっとした表情は幼さもまだ残していて、不貞腐れながらもカップを口に運ぶ素直さは少年のようだ。
ごく、と飲んでから、キッドはちょっと目をぱちくりさせた。

「・・・インスタントじゃ、ない?」
「そ。なんとコーヒーメーカー買っちゃいましたー!」
「おおー!・・・でも、ゆいなコーヒーあんま飲まねーじゃん。いいの?」
「大丈夫。だってこれ、温泉卵作れるんだよ!毎日食べれるんだよ!」

大発見!と思って私が自慢げに語ると、キッドは「温泉卵って」と噴出した。なんだなんだ失礼な。

「でも美味しいでしょ?」
「ああ・・・」

そのまんまの笑顔で頷いてくれると予想していた私は、息を呑んだ。
だって、キッドの表情がゆっくりと寂しそうなものに変わっていったから。
きゅんとする心臓の痛さとは違う、締め付けられるような痛さでさらに息が止まりそうになる。
キッドはちょっと俯き加減に言った。

「・・・・・いつもありがとな、ゆいな」
「え・・・何言ってんのいまさら」
「だって俺、本当の名前、まだ言えてないのに」
「・・・・・・っ」

怪盗キッド。月下の奇術師。平成のルパン。世界的に有名な大怪盗。
だけど本当は、ただの高校生で、子供っぽいところがあって、強がりでちょっとわがままで。
演技じゃなく、時々ちらりと素で見せる大人っぽい振る舞いが魅力的で。
マジックが得意で人を驚かせることが好き。面倒くさがりで頭がいい。そしてとてもとても、優しい。

私は彼のことをたくさん知っている。


だけどただ唯一、彼が何処の誰なのか、私は知らなかった。


「・・・・・まだ、ってことは、いつか教えてくれるんでしょ?」
「・・・・・・ああ」
「じゃあ、それまでは待ってるよ。キッドさん」
「ゆいな・・・・」

笑ってみせれば、キッドも申し訳なさそうにだけど、笑ってくれた。
私は彼の隣に座ると、そっと頭をその肩に寄せた。
苦いコーヒーの匂いが私の体にも染み付いて欲しくて、ぎゅっとお腹に抱きつけば、黙って彼の腕が背中に回る。
生ぬるい体温が心地よくて、私たちはしばらくの間、お互い離れようとしなかった。

ラプソディは

彼の名前を呼ぶ日が早く来ますように、と私は心の中でお月様にお祈りをした。
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