真っ暗な深い森の中で、迷子になっていた。
どろり、と纏わりつくような闇が、視界を遮り行く手を阻む。
すごく自分が幼く無力になった気がして、それでもしっかり立とうとした。・・・あれ、うまく、力が入らない。コンクリートで固められたみたいだ。
動かない足を、なんとか引きずって森の中を進む。
明かりも何もありはしない、しかし完全な闇でもない。どこからか、薄い光が漏れているのはわかっていた。
なんとかして光を、手繰り寄せなければ。あそこの、ずっとずっと遠くで星のように輝いている光を。

どくん、どくん、

何かの音がする。耳の奥から聞こえてくるようだ。


どくん、どくん、どくん

ああ、聞き覚えのある音。生まれた時から、共に育ってきた音。そうだ、俺は、


「・・・・・あかるい」


目の前に差し込んだ光を確認したとき、俺は乾ききった喉を震わせて、そんなことを呟いていたそうだ。
オレは覚えていないけれど、その時、まさに俺の首筋にそっと冷え切った手を重ねていた彼女がそう言うのだから、そうなのだろう。

目を開けた俺は驚いていた。何故って、知らない女の人が俺の首に手を当てて、にっこりと微笑んでいたから。
普通なら、命の危険を感じる場面だ。首元なんて、恐ろしすぎる。それでも俺が彼女を敵と判断しなかったのは、彼女が綺麗に笑っていたから。
そう、本当に綺麗な微笑みだった。俺は驚きすぎて、呆然と彼女の顔をじっと見つめていた。
彼女がそっと手を離す。その時始めて、先程の音が自分の脈の音だということに気がつく。どくん。ほら、心臓が跳ねる。
まるで、俺が生きていることを、俺の脈拍を持って伝えようとしていたかのように。彼女は俺を引っ張り上げてくれていたのだ。


「ありがとう、」


これは覚えている。俺は、静かに呟いた。彼女はやはりにこりと笑って、そっと俺の額を撫でた。白い服がちらりと視線に入る。
その白さで記憶が一気に駆け巡る。
俺は確か、アクマとの戦いで足を骨折してて、手術して、そして麻酔による眠りの中で迷子になったんだ。

「ここ、教団、だよな?・・・看護士さん?」

すると彼女は、そう、ここは教団。私は、医療班のゆいな。そんな風に、簡単に自己紹介したのだ。


それが、俺とゆいなの出会いだった。


「・・・・ゆいな」
「おはよう、ラビ」
「うん、・・・・あのさ、」
「リナリーもちゃんと大丈夫だから、心配しないで」
「そっかあ・・・よかった」
「だから、今はちゃんと、安静にしてて」

それからというもの、俺が任務から帰ってきて、怪我を治療して眠りについて目覚めたとき、彼女は決まってそこに居てくれた。
怪我の治療にはいつもいないのに、いつでも俺を森の中から現実へと導いてくれる。
静かに微笑みながら、俺の首元にそっと優しく手を添えて。鼓動を俺に届けてくれる。
そしていつでも電気を全部つけて、部屋を明かりでいっぱいにしてくれているのだ。

「痛みの中の眠りは、怖いの」

何故かと聞いたとき、彼女はちょっと困ったように笑っていた。
それ以上は言わなかったけれど、あの深い森のことを言っていたんだろう。あの暗闇を、彼女も知っていたのだろうか。


「南の方は、やっぱり暖かいの?」
「ああ、あと、綺麗な花が多いさー」
「へえ!」

ベッドの脇で、彼女はテキパキと俺の包帯を替えたり、点滴を取り替えたりする。
俺が今まで見てきた風景の話やおとぎ話をしてやると、興味を持って真剣に聞き入り、時々くすぐったそうに笑うのだ。
そんな、戦場とは正反対の穏やかな時間が好きで、あたたかくて、自分が怪我人だということも忘れてしまいそうになる。
無理やりに起き上がれば、すぐに婦長が飛んで来て、俺もゆいなも説教を喰らうハメになる。そして後から、二人して笑うのだ。

そんな穏やかな時間が好きだった。

だから俺は、病室以外では絶対に、彼女と話さなかった。
たとえ姿を見かけても、見えないようにしてきた。そこに居ないかのように、振舞うのだ。
なんてひどい仕打ちだろうと、俺自身もわかっていた。

ただ、怖かったんだ。
彼女を知ることが。俺の前に居る彼女が、全てではないことをちゃんと分かっていた。
だけど、届かないことを思うと、手を伸ばすことが、ひどく恐ろしい。

幼稚な表現だけれど、俺を光へと導く彼女を、まるで天使のように感じていたんだ。
人間の力なんて及ばない、ずっとずっと、神様に近い存在。
触れて、その白さが失われることが怖かった。


「・・・私、看護士失格ね」

あるとき、彼女がぽつりと呟いた。その顔は確か、窓からの逆光で見えなかったんだ。

「え?」
「ラビと会えるのが、楽しみなの。あなたは、怪我をしているのに、ね」

きっと、彼女は全てわかっていた。
俺が彼女を避ける理由も、彼女の手に一生懸命縋ってることも。
だから、俺が暗闇から戻ってきたとき、いっそう綺麗に笑ってくれるんだろう。


そして、全てに気がついていて、あの時何も言えなかった俺は、男失格だ。


ごめん。



「ラビ、ラビ!!」

機能を失おうとしていた聴覚が、なんとか拾い上げた声は、彼女が一生懸命俺を呼ぶ声だった。
手を伸ばそうとして、体を起こそうとして、全身に雷が落ちたような痛みが走る。

ああ、いてえ・・・そうだ、おれは、大怪我、してるんだ。

今のは、走馬灯だろうか。だとしたら、なんて彼女に依存した人生だったことだろうか。


「ラビ、教団だよ!わかる?私、ここに居るよ!」


わかるよ。聞こえてる。でも、答えてやることができない。
ゆいな、ごめん。
何にも、今まで答えてなかった。今も、応えてやれない。

ごめんな。

なんとかして、薄く目をあければ、白っぽい光があふれた。目が、痛い。


「ラビ、ラビ!しっかり!」

ぼんやりとした視界の中に、必死に俺の名前を叫ぶゆいなの顔があった。
穏やかなんてもんじゃない。瞳にいっぱい涙を溜めて、それでも泣き出さまいと、必死に堪えている顔。
ぐちゃぐちゃに歪んで、全部捨てて俺の名を呼んでいる。

「・・・・ゆいな、」


ああ、彼女は人間だった。よわっちい、人間だった。



次に気がついたときは、また、迷子だった。
ぐるりと辺りを見回す。闇。ずっと向こうまで、闇。果てのない森。
俺は落ち着いて、耳を澄ました。どくん、聞こえるはずだ。どくん。だけど、待っても何処まで行っても無音。
そうか、だめだったんだ。
俺は、彼女の手の届かない奥まで来てしまったんだ。後戻りできないところまで。

意外と、冷静で居られた。ただ、もう一度ゆいなと話したいと思った。全部、伝えてしまいたい。

俺って馬鹿だなあと、自嘲的な笑みが漏れる。
真っ暗すぎて指先さえ見えなかったけれど、暗闇に溶け込んで、彼女の夢の中にでも湧き出せればいいと思った。
ごめんな。


・・・・ラビ。


声が聞こえた。ぼんやりとくぐもった声。ラビ。俺の名前。どくん、心臓の音が、脳の中で響いた。
あたたかい。光だ、俺の、右手からゆっくりと光が闇を追い払う。どくん、どくん、どくん。


「・・・・・あ」

ひどい怪我だったらしい。つんとした消毒液のにおいが、俺の鼻を攻撃する。
指先をゆっくりと動かそうとすれば、なんだかすごくあたたかくて、上手く動かない。
固定された首をなんとか横にすれば、俺の手を握り締めて、彼女がそこに、いた。


「おかえり、ラビ」

弱りきった顔で、それでも微笑もうとする彼女が愛おしくて、なんだかひどく安心して、俺は多分笑っていた。

すると、彼女はきょとんとした後、よっぽど俺が情けない顔で笑っていたんだろう、ぷ、と吹き出した。

「ふふ、ラビ、へんなかお」
「へんて、ひどいさー・・・」
「だって、あはは・・・っ」

俺は言葉を失ってしまった。彼女が笑いながら、ぽろぽろと涙をこぼしたからだ。
森から引きあげてくれたあと、彼女はいつでも微笑んでいた。なのに今、大粒の涙がシーツに染みをつくる。

「・・・・ゆいな」
「ごめ・・・ラビが起きたときは、笑うって、決めてたのに」
「ううん、おれこそ、ごめんな」
「怖かった・・・戻ってこないんじゃないかって、わたし、」
「うん」
「二度と起きないんじゃないかって、」
「ちゃんと帰ってきたさ」

泣きながら俺の包帯だらけの手を握るゆいなの頭を、撫でてやることはできなかったけど、俺は全ての気持ちを込めて、ゆっくりと指を絡めた。
彼女がはっとして、湿った目を少し大きくして、それから俯いて俺の手の甲にそっと額を近づけた。

「ごめんね。わたし、ラビが思ってるほど、強くはいられなかった、」
「ゆいなが、謝ることじゃないさ。全部、俺が悪いんだ」

ごめん。いつだって、俺の手を握ってくれていたのに、俺はそれを見ないふりをしていた。
全部わかってて、彼女の優しさに甘えきって、彼女をずっと綺麗なままにして満足していた。


彼女は、俺と同じ、一人では生きられない弱いよわい人間だったのに。

ぎし、と音を立てて、俺はなんとか頭を起こした。
慌ててゆいなが止めようとするが、それを微笑んで逆に制する。動揺した顔で、それでも俺をじっと見つめてくる彼女の瞳は、光で溢れていて悲しいほど美しい。

ずっとずっと、言えなかった言葉。
きっと、あの深く暗い森の中に落としてきてしまっていたんだ。
ごめんな、ゆいな。今やっと、見つけてきたよ。君を迷子にしていたのは、俺だった。


「あいしてる」


見開いた彼女の瞳から、ぽろりと涙がまた零れ落ちた。
俺は、それが眩しいほど白い布に吸い込まれていくのを見送ったあと、そっと彼女の額に唇を寄せた。


リュミエール


どくん、どくん。君も俺も、生きている。


たくさんの光の中で、手を繋いで。優しい言葉で、お互いを愛しみながら。
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