何年間も、暗い牢屋の中に閉じ込められていた彼が、脱獄した。

新聞の一面で彼の顔を久しぶりに見たとき、私は懐かしい感情に胸が締め付けられて、もう少しで息が止まるのではないかと感じた。
忙しいことを理由にして、現実と向き合う正常さを言い訳にして、頭の隅に追いやろうとしていた感情だった。
写真の中で叫ぶ彼と目が合った時、涙が溢れた。彼は苦しそうだった。すべての悲しみが、彼を押しつぶしていた。

ならば私にいったいどうしろというのだ。どうすればよかったんだ、私は。

魔法省を動かせるような力は私にはなかった。大して権力のある地位ではなかった、一般の魔法使いだった私。
恐怖と戦いながらも、いつか平和な時代がやってきて、大好きな人と幸せな人生を送ることを夢見ていた、私。

そんな人間に、いったい何が出来たというのだ。そんなはずはないと叫んで、誰が同意してくれた?

親友達で成り立っていた私の世界は、見事に崩れ去った。
助けてくれる人は誰も居なくて、現実に耳を塞いでもなお、聞こえてくるのは大好きな彼を非難する声。
気遣ってくれる人々はみんな、残念だったね、と肩を抱く。でもそんなの、慰めにも何にもならなかった。

どうすればよかったというのだ。どうしたら、彼をこの苦しみから、私をこの苦しみから、助け出す手段を見つけられたのだろうか。
それにあの時の私は、全世界の人の前に立って、彼は無実だと叫ぶような自信がなかった。
突きつけられた証拠と真実が、私の目を濁らせた。唯一残った友人の表情が、私の心を揺らがせた。


だから、新聞の彼と目が会ったとき、私は涙を流した。悔しくて、悲しくて、不安で。

これからどうしようかとか、会いたいだとか、逃げ出したいだとか、どうしようもない不安でくたびれて死んでしまうかと思った。
捕まってやしないかと、新聞を読み漁っては、ため息をついて、何をやっているんだと自分を叱咤する。
そんな毎日が続いて、一年が経って、そして、

ずっと考えていたはずなのに、毎日が続けば必ずこの瞬間がやってくるとわかっていたのに、


「・・・・・シリ、ウス」

今、目の前にいる彼に伝えるべき言葉が、みつからない。

チャイムが鳴って、いつものようにドアを開けた先には、真っ黒な大きな犬が座っていた。

私は息を止めた。
一瞬のことだったはずなのに、目の前がその黒に満たされて、とても長い間そのままだったような気がする。
だけどなんとか、力を振り絞って、言葉を探すけれど、見つかるのはぐちゃぐちゃな感情。
なんとか彼の名前を呼ぶと、とても懐かしい感じがした。当たり前だ、もう何年も、呼んでない。
すると目の前の犬は、何も言わず、静かに人間の姿を取り戻した。

「元気そうだな、よかった」

新聞の姿とは、随分違っていた。少なくとも、身体的に苦しそうではなかった。でも浮かべた笑みは、苦しそうだった。

「シリウス、」
「・・・・・・・ああ」

あなたも、元気そうね。どうやってここに来たの。魔法省は。怪我はしてない。髪を切ったね。どうして。何が。
頭をよぎるいくつもの言葉が、全部当てはまらなくて、喉が無意味に震えた。
しばらくお互い相手を見詰め合うだけで時間が過ぎた。目を、離せなかった。掌まで震えが伝わった。どうしよう。

「ゆいな」

その言葉に、びくんと心臓が揺れる。もう何年も聞いていなかった、彼が呼ぶ私の名前。彼のもので、私のもの。

「会いたかった」
「・・・・・どうして」

私の肩に触れようとしていた彼の指先が、すっと止まった。未だに、震えていた。苦しい。
シリウスはその手を下ろして、きゅっと握った。その動作がたまらなく懐かしくて、また苦しい。

「君に、話したいことがあるんだ」
「・・・・・・」
「オレは、あの牢獄の中で、ずっと君のことを考えてた」
「・・・・・・・」
「信じてくれて、いたんだろう?だから今も、この家に、」

今までずっと見ていたはずなのに、彼の瞳をやっと捉えた気がした。揺れ動く感情が、締め付けて、締め付けて。
信じていた?まさか、わからない。だって存在ごと消し去ろうとしていた。
もしあなたが言うように強い女だったなら、私は魔法省に乗り込んでいって、法廷からあなたを奪っていたに違いない。
でもそれが出来なかった。そんな私は弱い女。新聞を読んで、涙を流すだけ。

「シリウスは・・・・私のこと、信じてた?」

私があなたを信じているって、信じてた?
助け出すことはおろか、抗議をすることも、硬い決意であなたを待つこともできなかった私を。
息を潜めて現実から逃げようとする私を。

「信じてたよ。今も、この十数年間も、ずっと」
「私は・・・・できなかった」
「・・・オレのことを、疑ってた?」
「そうじゃ、ない・・・・でも、怖かった」

真実を知るのが怖かった。だってあなたは固い分厚い壁の向こう。叫んでも声は届かない。
悪ければ一生、私はその壁を越えることは出来なかったのだ。一度思ってしまったが最後、伝えたい言葉を伝える手段なんてあるはずがなくて。
叶いもしない希望を、死ぬまで持ち続けることが、怖かった。

少しの沈黙のあと、シリウスが発した声は、乾いていて、どこか震えていた。

「オレも・・・・ほんとは怖かった。拒絶されたら、どうしようかと思っていた。信じてたけど、怖かった」
「・・・シリウス、」
「だから、最初にオレの名前を呼んでくれて、すごく、すごく嬉しかった」
「・・・・っ、」

「ここに居てくれて、ありがとう・・・・ゆいな」

そう言って、抱きしめた彼の腕はあたたかかった。じんわりと広がる温もりと同時に、彼の存在が私の体に溶け込んでいく。
途端にどこかに置き忘れていたものが、体中を駆け巡って頭がじんとした。熱くなって、知らないうちに涙が出てくる。

悲しいよ、シリウス。すごくすごく、悲しい。

たすけてあげられなくて、ごめんね。私も寂しかったけど、あなたも苦しかったよね。
私だけは信じてるからって、なんで言えなかったんだろう。
世界で一人きりになったって、あなたがいるから怖いものなんて何もなかったのに。

「来るの、遅いよ、ばか・・・」
「ごめんな、一人にして」
「会いたかった、よ・・・・・ずっと会いたかった」
「・・・うん」

ぎゅっと力を込めると、心臓の音が聞こえた。
よかった。消えていなくて、よかった。そこに居てくれて、触れていられて、声が聞けて。
私の望みが、それすらも忘れてしまう前に、こうやって今叶ってくれた。

「・・・・・おかえり、シリウス」

ただいまって言った彼の声は、嬉しそうで、そして、泣いていた。


砂 時 計 の 底 で
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