「……ゆいな…!」
応える代わりに、ぽろり、涙が零れた。
耳元で聞こえた切実な声と、決して離さないとでもいうように強く抱きしめてくる両腕の温もり。
その両方に、覚えがあった。いや、覚えがあるなんてものじゃない。
それは、ずっと、ずっと焦がれてたまらなかったもの。
言葉にしようと思った想いが、言葉となる前に喉に蓋をしてしまって、息をすることですら難しい。
ゆいなは震える手を、その大きな背中にそっと添えた。
「ゆいな…ごめん、ごめんな、俺、」
ごめん。そう繰り返す弱々しい声に、返事をしたいという想いとは裏腹に、またぽろぽろと涙が落ちてくる。
それでも、どれだけ苦しくても、息をするよりただとにかく、その名前を呼びたいと思った。
「快斗……っ!」
なんとか搾り出すことが出来た彼の名前。なんだかとても懐かしい気がした。
ぎゅっと、抱きしめてくる腕が、より一層強くなる。
それを皮切りに、ゆいなはその名前を、それ以外の言葉なんて知らないかのように呼び続けた。その一つ一つに、快斗も返事を返す。
快斗の声が言葉を紡ぐ度に、零れ落ちる涙と一緒に、不安がひとつずつ消えてゆくようだった。
「快斗、しんじゃったかと、思った……」
「心配かけてごめんな、ゆいな」
頬にそっと手を添えられて、つられるように顔を上げれば、涙で霞んだそこには、もう白鳥はおらず、代わりに快斗が泣きそうな顔をして微笑んでいた。
その表情を見た瞬間、本当に快斗なのだと分かった途端、またとめどなく気持ちがあふれ出す。
たった一日だったけれど、もっと長い間一人だったような気がした。
ずっとずっと、呼吸の仕方すら忘れていて、今やっと自分が生きているのだと実感した。
それと同時に、自分にとって快斗がどれだけ大切な存在なのかも。
ゆいなは何も考えずに、ただ思ったことを口にした。
「すきだよ、快斗」
好き。
とにかく、ただそれだけでも、伝えたかった。
少し目を丸くして頬を染めた後、くしゃ、と今にも泣きそうな顔で快斗は笑う。俺もだよ、と返す声は震えていた。
それから真剣な瞳になって、そっと近づいた唇と触れた吐息に、ゆいなはそっと目を閉じた。
「スコーピオン…?」
ベッドで向かい合うように座った二人。ゆいなは、快斗から、ことのあらましを聞いていた。聞き慣れない言葉に首を傾げると、快斗は自分の右目を指差した。
「右目を狙う暗殺者だよ」
「右目…って、もしかして、」
「そう。たぶん、俺を狙ったのも、寒川さんを狙ったのも、そのスコーピオンだ」
「暗殺者…」
そんなものに、ゆいなは対峙したことがない。人を殺すことを得意とする人がいるということですら、信じることが出来ない。それでも快斗が狙われ、寒川が殺されたのは変わらぬ事実。
不安そうに揺れるゆいなの瞳に気づいた快斗が、そっと頭を撫でた。
「俺としては、エッグが警察で証拠として保管されるのを望んでたんだけど…鈴木会長の手に戻ったって聞いてさ」
「うん、」
「知った時には船は出てて…スコーピオンがゆいなと同じ船に入り込んでるかもしれないってのに、すぐに船に乗り込む手段がなくて…」
「それで、白鳥さんに?」
「一応無線は盗聴してたんだけど…俺がもっとはやく動けてたら、こんなことにならなかったかも……怖い思いさせてごめんな、ゆいな」
殺人というものにはじめて居合わせた。そして、暗殺者という非日常までも合わさって、正直ゆいなは体の震えが止まらない思いだった。
それでも、ふるふると首を横に降る。快斗が責任を感じることではない。
「…快斗が無事でいてくれてるんだから、それでいい」
「ゆいな……」
「ほんとに、どこも怪我してない?」
「おう。元気すぎるくらい元気だぜ!」
にかっと笑ういつもの快斗に、ゆいなはまた泣いてしまいそうだった。
それをぐっと耐えて、彼の首に腕を回す。首下に顔をうずめてぎゅうと抱きつけば、ゆるゆると髪の毛を快斗のあたたかい手が撫でる。それだけで安心感が胸いっぱいに広がり、幸せだ、と思った。
「ちゃんと、無事に帰ってきてくれた……」
「言っただろ、俺は何があっても大丈夫だ、って」
「うん……でも、もう絶対に、心配かけないで」
「ああ、約束する。もうオメーを泣かせたりしないから」
「うん」
髪を撫でていた手が背中に回り、一度強く抱きしめられたと思ったら、そのままくらりと体が傾いて、一呼吸の間にゆいなの背中はベッドについていた。快斗の首に回した手を離す前に、背中から外された彼の右手が頬に触れ、言葉を発する前に呼吸ごとのみこまれる。
「……ん、快斗、戻らなきゃ」
「………やだ」
「やだ、って…ん、ちょっ、」
言葉すらも食べてしまうような口づけに、ゆいなの静止の言葉すら吸い込まれる。首に回していた手を快斗の肩に置いても状況は変わらず、段々と深くなってゆくそれに頭がぼんやりとする。
目を閉じた、その時だった。
「ゆいな、大丈夫ー?」
「……っ!?」
コンコン、と軽いノックの音のあとに、蘭の心配そうな声が、部屋に響いた。
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