「入らなくていいから」
デッキを飛び出して、すぐに皆が集まっている寒川の部屋の前に辿り着いて、そのまま部屋を覗こうとしたゆいなの手を引っ張ったのは、コナンだった。
「……コナン、くん」
「ゆいなねえちゃんは、見ない方がいいよ」
ゆいなは、人混みのむこうで、顔色を悪くしている蘭を見つけて、息をつめ、黙って頷いた。どんな状況かは分からないけれど、殺された、ということはきっと悲惨な状況なのだろう。
コナンは小声でここに居ろよ、と言うとすぐにまた部屋の中に滑り込んで行った。
彼が居る限り、きっと事件は解決する。
そうは信じていても、殺人現場などに耐性のないゆいなは、震えそうになる指先をぎゅっと握る。
そこから動くこともできず立ちすくんで居ると、背後から足音が近づいてきて、ゆいなは思わず肩を揺らした。
「みなさん、ちょっとすみません」
振り向くと、小五郎を筆頭に、何回か見たことのある警察の面々が、警察手帳を出してこちらに向かっていた。
「警視庁の目暮です。みなさん我々の捜査が終わるまで、ラウンジに集まっていて頂けますかな」
騒がしさが静まった人混みを掻き分けて、目暮は部屋に入った。こりゃあ…と彼の呟きを聞き取って、ゆいなはまた顔を歪めた。かすかに感じる血の匂いにも気づいてしまって、頭の中が凍りついてしまいそうだった。
「顔色が悪いですね」
あまり聞き覚えのない声に顔をあげる。
くるくるとした黒髪の切れ長の目の男。ゆいなは記憶を手繰り寄せて、あ、と呟いた。
「白鳥さん……」
顔をみたことはあるが、あまり話したことはない。白鳥は困ったようにゆいなの肩に手を置いた。
「ゆいなさん、早くラウンジへ」
「……ごめんなさい」
「現場は見ましたか?」
「いいえ…」
白鳥はほっと息を吐くと、それでいい、と微笑んだ。
「貴女は、決してみないでくださいね」
「……?」
首を傾げるゆいなを他所に、彼はゆいなの背中に手を回して、エスコートをするように歩き始めた。他の乗客もついてくるように指示をし、一行は一角のソファに座り、現場検証が終わるまで待機することになった。
「それにしても、殺人とは……」
鈴木会長が、重々しくため息を吐く。自分の船の中で殺人が起こってしまったのだから、無理もない。目を伏せた園子が、その手を握って励ましていた。
「でもいったい、どうして寒川さんが……」
「やっぱり、あの指輪でしょうか」
「指輪?」
青蘭の言葉に、蘭が首を傾げる。
ゆいなも記憶をめぐらせるが、彼が指輪を嵌めていた記憶はない。
「ニコライ二世の三女、マリアの指輪です。さっきデッキで寒川さんが見せてくれたんですけど……首から下げていて」
「確かに、あれが本物だとしたら、強盗目的で殺人が起こってもおかしくないですな」
美術商の乾が言うのだから、その価値は相当の物なのだろう。
たった指輪ひとつで、と考えをめぐらせて、ゆいなは目を伏せた。
そんなもののせいで、人の命が奪われるのか。
「(快斗、だったら…)」
怪盗キッドだったら、盗むために人殺しなんて、たとえ自分が死んだとしても決してしないのに。
「しかし…犯人は普通の人間ではないでしょうな」
セルゲイが顎に手を当てて呟く。
「普通の人間じゃない?」
「銃の扱いに長けているものでなければ、あんな殺し方はできないでしょう」
「あの……それは、どんな?」
おずおずとゆいなが聞き返す。知らない方がいいのかもしれないけれど、知っておかなければならない気がした。
セルゲイは一瞬悩んだ後、自分の右目をすっと指差した。
「右目ですよ。寒川さんは、右目を撃たれて殺されていたんです」
「……っ!」
その現場を否応にも想像してしまって、背筋に寒気が走る。
それと同時に、気付きたくなかったことに気付いてしまった。
思わず立ち上がって、自分の爪先を見つめる。
視界がぐらぐらした。
「……かい、と」
「え?」
「怪盗、キッドも…右目を…」
壊れて落ちたモノクル。
キッドがいつも右目につけているものだ。
頭の中に、嫌に鮮明にイメージが浮かんだ。
右目から血を流して、地面に吸い込まれていく彼。赤い粒が空中を舞って、その白い姿は、海に落ちて、海を、赤く染めて、
「……っ、」
だめだ。
視界がぐらりと傾きそうになった時、背中を支える温かい手が伸びた。
くらくらする頭をなんとか稼働させて顔をあげれば、困ったように微笑んでいる白鳥がいた。
「気になって戻ってきたのですが…ゆいなさん、顔が真っ青ですよ…」
「……白鳥、さん、」
「部屋で休んでください」
「でも…」
「いいから」
どうしてこの人はこんなに気にかけてくれるんだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、ゆいなは頷いて彼の手を取った。
「私も…!」
「蘭さんはここに居てください。ゆいなさんは僕が部屋まで連れて行きますから」
「…じゃあ、お願いします」
ゆいなはなんとか蘭に向かって微笑むと、しっかりしなければと足に力をいれた。
気遣うように優しくゆいなの手を腕に捕まらせて、白鳥はゆっくりと歩く。
「白鳥さん、ごめんなさい…」
「殺人が起こったんです。当たり前ですよ」
「……大切な人と、重ねてしまって。その人、今、連絡がつかなくて」
「………」
じわり、涙が浮かんでしまって、慌てて拭う。こんなことを、警察の彼に言ってはいけない。言っても仕方がない。
白鳥は何も言わず、部屋の前で立ち止まった。いつのまにかゆいなの部屋まで来ていたのだ。
白鳥に着いていくかたちで歩いていたのに、知っているはずもない自分の部屋にたどり着いていることに首を傾げながらも、ゆいなは鍵を開けた。
「じゃあ、白鳥さん、お仕事中にすみませんでし、」
全てを言う前に、体がぐらりと傾いた。部屋に押し込まれるように腕を引かれると、塞がった視界の向こうで、がちゃりと鍵がかかる音がした。
突然の出来事に頭がついていかず、ただ自分が目の前の男に抱きしめられていることだけを理解して、声を出そうとしたとき、何故かそれよりも前にぽろりと涙がこぼれた。
何故か、その答えは、耳元で聞こえた掠れた声がすぐに教えてくれた。
「……ゆいな…!」
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