シリウスは、ドアノブを握りしめたまま、はっと我に帰った。
「…………え」
閉められたドア。それを開けようと、ドアノブを握る自分。シリウスは、しばらく呆然としたあと、ゆっくりとその手を下ろした。
思考が混乱していた。鈍い痛みが、蛇のように頭の中を這い回っていた。
その痛みが収まるのと比例して、ゆっくりと、状況が飲み込めてきた。ジェームズとリリーの家。外は雪。そうだ、ジェームズから連絡があって、来たら子供ができたと発表されて、お祝いにどんちゃん騒ぎをして、雪が降ってきて、それで、
「なんで、俺、外にいこうとしてたんた…?」
呟いた言葉に、ガタンと椅子が倒れる音がして、驚いて振り向くと、リリーが呆然とこちらを見ていた。
泣いている。
そこで、シリウスははじめて自分も泣いていることに気がついた。
「シリウス……」
何かに縋るな声で、リリーは呟いた。
ぽろぽろと零れる涙に耐えきれずに、彼女はジェームズの胸にしがみついた。彼も泣いていた。床を見つめているリーマスも、何も言わずに涙をこぼしていた。
そこで気がついた。
何かが、足りない。何か、とても大切なものが。
でも、なにが足りないのかわからない。
シリウスは、自分が握りしめていたドアノブに触れた。長い間握りしめていたからなのか、生温くなっていたそれを、はやく回さなければいけないと焦る想いがこみ上げる。
でも、何故?
――早くしないと、あいつが風邪をひいてしまう。
「あいつ……?」
「…っ、シリウス、何かわかるのかい!?」
「わかるって……なにが?」
ジェームズは答えられずに口を噤んだ。
その場にいる全員が、わけのわからない不安と悲しみにかられていた。
何かが抜け落ちた気がする。絶対に手放したくなかった何か。
顔を上げたリーマスが、壁を見つめて大きく目を見開いた。
「あ、あれ……!」
彼が指差す先にある一枚の写真。
それは、卒業式のときに皆で撮った写真だった。
リリーの肩に手を回して、嬉しそうに笑っているジェームズ。
その隣で困ったように笑っているリーマスとピーター。ジェームズの後ろで、彼を小突いているシリウス。
そして、
一生懸命こちらに手を振っている、ひとつの、影。
「なんだ、これ……」
ぼやぼやと、その存在を塗りつぶすように影を纏った、かろうじて人だと分かる塊。
不気味なはずなのに、まったく怖くはなかった。ただ、それを見ていると、苦しさと悲しさで胸が締め付けられる思いになる。
顔を上げたリリーが悲鳴のように息を呑んで、壁から写真を取り外した。
「ひどい…」
影をこすり落とすように、彼女はその人影を何度も指でなぞった。
「なんで…だって、ここには、あの子が……あの子、が…?」
はた、と気がついて、リリーは顔を上げた。
「あの子って、誰…?」
自分の言葉が信じられない、というように、リリーは口を覆った。そしてまた、ぽろぽろと涙をこぼす。
「なんで…思い出せないの?名前も、顔も、声も、なんにも、思い出せない」
「リリー…」
「ジェームズ、覚えて、ない?」
ジェームズは、静かに首を横に振った。
リーマスも、シリウスも何も言えなかった。
「でも、ここに居たのよ、絶対に、ここにいたの」
「……うん、それは、僕もわかる」
「なんで、私たち、忘れてしまっているの?」
すべてがなくなったわけではなかった。
その人物と、長い時を過ごしていたことも、楽しいことも苦しいことも共にしてきたことも、そしてとても愛していたことも、ちゃんと残っていた。その人物に対する感情だけは、鮮明に思い描くことができる。
ただ、その存在の証拠が、まるで無理矢理消されたかのように、乱暴になくなっていた。
「シリウス……?」
彼は、リリーから写真を取ると、じっとその影を見つめたあと、ふいにポケットに手を延ばした。
そこから出てきた、小さな箱。
「なんだいそれ?」
「……指輪だ」
シルバーの、小さなダイヤモンドがついた細身の指輪。シリウスは、それを震える手で撫でて、そのままぎゅっと抱きしめた。
「そうだ、俺、好きだった……愛してた…!」
ぽろぽろ、溢れる涙が止まらない。
思い出した。プロポーズをしようとしてたのだ、その人に。この指輪を、細くて綺麗な薬指にそっと嵌めて、永遠の愛を誓うつもりだった。
だけど、その人が、誰なのかが分からない。
思い出そうとしても、記憶の代わりに涙が出てくるだけで。
その指輪を片手に握り締めたまま、シリウスは、もう一度ドアノブを握って、今度はちゃんとドアを開けた。
そのとき、何故だか、その行為を前に一度したような気がした。
開けた世界では、雪が降っていた。足跡がしっかりつくだろうほどしっかり積もったそれは、辺りの音も光も吸い込んでいる。
けれど、そこには誰の足跡もなく、雪のカーテンの向こうには静かな木々が佇んでいるだけだった。
「消されたんだ…」
ジェームズが、同じように真っ白な景色を見つめながら言った。
「僕たちの記憶が、多分あの子のことだけ、故意に消されたんだ」
「でも、なんのために…?」
「……みんな、さっきドアを開けたとき、デジャブだって思わなかったかい?」
「……!?」
「それって…?」
全員がジェームズの顔を見つめる。
どうやらこの場にいる全員が、同じ違和感を感じたようだった。
過去に同じことがあったような、不思議な感覚。
「多分、あの子はここに居た。でも何かがあって、居なかったことになってしまったんだ」
「何かって…?」
「それは、わからない……」
ジェームズは静かに首をふった。
誰もなにも言えなかった。言えるほどの記憶がなかった。
シリウスは、指輪をそっと指にはめた。薬指には入らなかったから、小指にはめてぎゅっと強く握る。
終わることのない悲しみが、はじまった日だった。
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