呼吸が、心臓が、体の全てが働くことを忘れたみたいだった。
聞いたことがない、この世のものと思えない冷え切った声。まるで吸魂鬼のように、一瞬にして全ての幸福感を吸い取ったその冷気に、ナマエとシリウスは同時に杖を抜いた。
勢いを増してきた雪のカーテンの向こうで、黒い影が転々と並んでいる。
目を細めて見えた中心に立つ男に、ナマエは生まれて初めて、絶望を覚えた。
出会ったことはなかった。
出会った人間は、みな死んでいるから。
ただ、今を生きる全ての人間が、なによりも恐れている男。
「ヴォルデモート…!」
名前を呼んだのはシリウスだった。すぐさま彼の杖先から閃光が走る。周りに控えていた影が踊り出て、その光を打ち消す。すぐにもう一度閃光。破裂。飛び散った赤い光に映った影の一人が大きく杖を振り上げたところで、ヴォルデモートが右手をあげた。
「やめておけ」
低く、いやらしくねっとりとした、ドライアイスのような冷え切った声だった。触れてはならない危険を孕んだ声。ナマエは無意識のうちに、シリウスの腕を掴んでいた。指先が震えているのが、嫌でもわかった。
「その男に用はない。用があるのは……」
細い指先が宙を指したと思った瞬間、その指先は十数メートル離れていたはずの、ナマエの顎先をするりと撫でていた。
「……っ、」
「お前だ、ナマエ」
「ナマエ!!!」
何が起こっているのかわからない混乱の中で、ナマエはただただ命の危険を感じていた。これまでに味わったことのない恐怖が、背中をぞくぞくと這い回る。シリウスがぴくりと少し動いた瞬間、その手から細く弱い杖は虚しく弾け飛んだ。いやらしい笑い声が、ナマエの耳元に息と共にかかり、ぴたりと細い杖が首筋をナイフを当てるようになぞった。
シリウスが拳を握り男に殴り掛かろうと振り上げたが、その体は後方から飛んで来た光によって転がり落ちた。
「シリウスッ!」
さっと血の気が失せる。
叫び声に、シリウスは小さくうめき声をあげた。
それを見て、ナマエはぎゅっと拳を痛いほどに握ると、浅く長く息を吐いた。
「………用って、何かしら」
「…ナマエ…!」
「安心していい、殺しに来たわけではない」
「……じゃあ、」
なに。
ナマエは強く意思を込めて、ヴォルデモートを睨んだ。面白そうに笑う彼が憎かった。今このまま自分が杖を振ったとして、負けることは確定しているが、もしかしたら数パーセントの確率で自分の呪いが先に届くかもしれないと考えると、無謀でも杖を降りたかった。それくらい、憎い。
けれど、ナマエは己を冷静に保とうとした。だめだ。自暴自棄になるのは、まだはやい。
だって、背中には、守らなければならない家があるんだ。
なんとかして、彼等が逃げる時間だけでも稼ぎたい。
「いい女だな。強くて聡い」
「ハッ、まさか、口説きに来たとでも言うの」
「そのとおりだと言ったら?」
男はにやりと笑った。するすると杖先がナマエの首筋で行ったり来たりを繰り返す。
「お前が欲しい、ナマエ・ミョウジ」
ぞくり、例えようのない恐怖がナマエの目を開かせた。支配される、そうわかった。目の前の男の唇が呪文を唱える。杖の先から溢れる光に視界が真っ白になった。
「……やはりな」
ヴォルデモートの声が、少し離れた。一瞬の後、ナマエは気がつくと地面に倒れていた。頭の奥がガンガンと痛んでいたが、たくさんの視線を集めているのが、気配でわかった。ざわざわ、黒い影たちが囁いている。
「やはり、服従の呪文は効かぬか」
「ど、どういうことですか、主様の呪文が効かないとは」
「この女が本物だということだ」
細い腕に掴まれ、ナマエは無理矢理立ちあがらされた。目の前がちかちか、くらくらしていた。歪む視界の中に、狡猾な表情が映り込む。
「俺様の物となれ、ナマエ。その力を、俺様のために使え」
「……ち、から…って」
「不可能なことを、やってのける力だ」
力。
そんなもの、覚えがなかった。
揺らぐ景色の中で、失ってしまいそうな意識の中で、ただ呆然と、「しらない」と答える。
ヴォルデモートが、は、と息を吐くように笑った。
「過去をなかったことにする力」
どくん。
ナマエの中で、なにかが大きく心臓を叩いた。何を言っているのか、わからない。わからないけど、何故だかその意味を知ってはいけなかった気がした。
吐き出す息が、痛い。
そのまま飲み込んだら、死んでしまうような気がした。どくどく、波打つ心臓が、次の瞬間に止まることを想像できた。
「それが、お前の力だ、ナマエ」
ナマエが何か言おうときたその時、耳を塞ぎたくなるような爆音がして、辺りがちかちかした。
リーマス、ジェームズそしてリリーが、杖をかまえて煙の向こうから現れた。
現れて、しまった。
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