夢をみた。
リリーが腕に抱いた赤子を、こちらに顔が見えるように抱き直す。促されるままに、おそるおそるその赤子に腕を伸ばしてそっと抱き抱えると、想像していたよりもずっと軽く柔らかく、温かくて、すぐに壊れてしまいそうなほど小さかった。腕の中を覗き込んだシリウスが、見知らぬ生き物に触れるような遠慮がちな様子で、人差し指で小さな拳をつつく。かわいいね、と心の底から呟くと、リリーが花のように笑った。

"ね、この子の名前、決まった?"


「…………ハリー」

ナマエは自分の声で目を覚ました。
病棟に隣接する小部屋で、ナマエはソファに横になっていた。窓の外を見ると、もう空が白み始めている。固まった体を伸ばしながら起き上がると、音を立てないように病棟への扉を開き、ベッドへ近付く。カーテンの向こうで、静かな寝息がほんのかすかに聞こえた。どうやらあれからハリーはぐっすりと眠っていたらしい。今日からは、普通の生活に戻れるだろう。

ナマエはハリーのベッドに防音魔法をかけた。シャボン玉のような光が、ふわりとベッドの周囲を包む。頼まれていた、薬品棚の整理を片付けてしまおうと思った。睡眠が足りていない自覚はあったが、見ていた夢があまりにも優しすぎて、もう一度眠る気にはならなかった。続きが見れなかったときに、無駄に落ち込んでしまいそう。

薬品の使用期限を確認しながら、昨夜のハリーの話を思い出していた。最初は控えめだった彼も、夜が更けるにつれ、段々と子供らしく話すようになって。大人が子供の日常の話をじっくり聞くという、当たり前のことさえ、彼はこれまで経験がなかったのだろう。

「(一緒に暮らす…?)」

一瞬頭に浮かんだ情景を、ナマエは慌てて振り払った。自分の素性を明かしたら、ハリーは身元引き受け人として、自分のことを受け入れてくれるだろうか?そんな淡い期待が膨れ上がって、胸を締め付けた。この時代に戸籍すらないこの身に、彼を養育する術はない。分かっている。

出来ない理由を自分に言い聞かせていると、医務室の両開きの扉が、キィと小さな音を立てて開いた。驚いて振り向くと、リーマス・ルーピンがドアの隙間から医務室の中を窺っていた。ナマエの存在を認識すると、途端に"しまった"という顔になる。声をかける前に彼は顔を引っ込め、しかし数秒後に自分からドアを開けた。

「……やあ…早いね、ナマエ先生」
「ルーピン先生こそ……」

リーマスはひどくやつれていた。
数日間寝ていないのではというほど目の下の隈がくっきりと刻まれ、肌が乾燥していて、目に活力がない。誰がどう見ても、しっかり休養したほうがいい状態だ。ナマエは窓の外を見た。もうそこに、満月の姿はない。また彼が厳しい一晩を耐えたのだということは、容易に想像ができた。

「ちょっと栄養剤を飲みたくて……ここにあるかな?二角獣の角を使ったやつがいいんだけれど」
「それより、先に傷の手当てを…」

入口の近くに遠慮がちに佇むリーマスに駆け寄ると、ナマエは彼の返答を待たずに、その両腕の襟口を捲った。
狼になっている時の彼の自傷行為には、昔から癖があった。自分を守るように身を丸めるため、両腕にたくさんの爪痕が残るのだ。

「……あ」

しかし、袖の下には古い傷跡があるだけで、すぐに手当が必要な傷はなかった。ナマエははっとして手を離す。ごめんなさい、と咄嗟に一歩下がった。

「あの、ルーピン先生、私、失礼なことを…」
「………いや、いいんだ」

リーマスは一瞬、泣き出しそうな顔をした。
ぱっと顔を伏せながらゆっくりと袖口を戻し、次に顔を上げた時には、困ったような柔らかい笑顔だった。

「怪我はないんだよ、ありがとう」
「……よかった。二角獣の栄養剤ですね、確かあったはず……」

ナマエはどこに栄養剤があるか分かっていたが、薬品棚を探すふりをしてリーマスに背を向けた。スネイプから聞いていた脱狼薬のことをすっかり忘れていた。狼にはなるが、自我は保ったままでいられる薬。つまり、彼が自分で自分を傷つけることもないのだ。きっと、変に思われただろう。

「……あのベッドは、ハリーかい?うるさくしてしまったかな…?」
「大丈夫ですよ。今はぐっすり寝てます。防音魔法もかけてますから」
「そうか…吸魂鬼に怖い思いをしただろうね」

ナマエは、ハリーが聞いたというリリーの声のことをリーマスに話したくなった。一緒に悲しんで、その運命に一緒に怒って欲しかった。

けれど、それは絶対にできない。
もし、彼らの死がなかったことになった代償が、"ナマエに関する記憶"だとするなら、記憶を取り戻した時に、歪んだ時間を彼らがどう認識するのかが怖かった。もし、自分自身が死んだということも、思い出してしまったら?

「ナマエ先生は、」

瓶のラベルをじっと見つめていると、背後でリーマスが大きく息を吸ったのがわかった。

「こんなわたしが同僚で、いやではないのかい?」

ひどく疲れ切った声。ナマエは振り返り、息を呑んだ。朝焼けを縁取る窓の前に立っているリーマスが、なんだかそのまま空に吸い込まれて、消えてしまいそうな気がしたのだ。口元は愛想よく微笑んではいるが、その目はナマエの向こう側を見ている。思わず、もう一度彼の手首を掴んだ。掴んでいないと、どこかへ行ってしまいそうで。

「いやなわけない。私は、あなたが、ここにいてくれてよかったって思ってる」

生きていてくれただけで嬉しいのに。覚えていなくても、また一緒に笑い合えて本当に嬉しいのに。それを言葉で説明できないのが悔しかった。

「生徒たちも、先生のこと大好きですよ。他の先生方も信頼してる」
「でも、君はわたしのことを全部知ってるんだろう。怖くはない?心配にはならないのか?」

君のここを、食いちぎることが、あるかもしれないのに?
そう言って、リーマスの指が、ナマエの喉元をそっと押す。脅すような口調と裏腹に、乾いた指先はとても優しくて、それが彼の全てを物語っていた。
学生時代のリーマスも、同じようなことを言った。一緒にいても危険しかない。狼人間であることを知ったとき、そう言って遠ざけようとしていた。
ナマエの答えは、今も昔も変わらない。

「そんなことはさせないから、大丈夫」

彼の両手を握り、できる限り力を込めてきっぱりと言うと、やっとリーマスと目が合う。
迷子のような瞳は、学生の頃と変わらなかった。その表情に、思い知らされる。リーマスも、一人ぼっちになってしまったことに。自分が誰かわからなくなる恐怖と、一人で戦っていることに。

「こう見えて、私、それなりに優秀な魔法使いなんですよ」
「だとしても…しかし…」
「ルーピン先生が恐れてることは分かります。でも、大丈夫。私が絶対に、そんなことはさせないから」

動物もどきになろう。そう発案したジェームズも、同じことを言っていたのだと後から聞いた。ナマエの場合は、それが魔法の研鑽と医学の習得だったが、リーマスを守るために、狼人間を超える力を手に入れたいという気持ちは変わらない。

「こんな、会ったばかりの…よく知らない人から、そんなこと言われてもって思うかもしれないけど…」

目を丸くして固まったリーマスに、ナマエは少し怖気づいた。自分の立場を考え直すと、あまりにも無責任な言葉だろう。
しかしリーマスは、ゆっくりと息を吸って、それから肩の力を抜いた。

「いいや。君のこと、信頼しているよ」

緊張を解いた微笑みを浮かべて、リーマスはナマエの手を握り返した。その手はひどくあたたかかった。

「…ありがとう、私が絶対に守ります」

温かい手を、強く握り返す。
リーマスは少し困った顔をして、少し口を開いて、結局何も言わずに閉じた。ありがとう、と細い声。

「もう少し、頑張れそうだよ」
「頑張るって…まさか、これ、今から飲むんですか?」

二角獣の角をアオギリと煎じた栄養剤は、飲みやすく強烈だ。元気爆発薬のように耳から煙が出るとまではいかないが、目が冴えて感覚が鋭くなる。用途としてはドーピングに近い。

「え?ああ、そうだね」
「眠れなくなりますよ?」
「うん…今日から授業だから。準備もあるし」
「それでも、あと3時間くらい寝れますよね?」
「いや、そうだけど、しかし……」

薬を受け取ろうと伸びた彼の手から、さっと遠のける。リーマスが困ったようなむっとしたような顔をした。

「3時間後に起こしますから。隣の部屋のソファ使ってください」
「ありがとう。でも、それなら自分の部屋で寝るよ」
「ダメ。そんなこと言って、絶対寝ないでしょう」

ナマエは彼の背中を押して、先ほどまで自分が寝ていたソファに誘導する。されるがままにソファに腰掛けたリーマスは、困った顔でナマエを見上げた。

「薬は……」
「起きたらあげます」
「しかし、」

さっとリーマスの視線が、窓の外へ向いた。
山の向こうの橙色の空が、薄い水色に溶け合い始めていた。もう地球の裏側へと向かっている月を追いかけるように、彼の目が不安げに遠くを見る。ナマエは彼の膝に毛布を広げた。

「大丈夫」
「……でも」
「もう、いいから、睡眠魔法かけますよ!?」
「………ふふ」

ナマエが仁王立ちして眉をつりあげると、ぽかんとした後リーマスは唇を震わせた。

「いや…あはは、ごめん。マダムポンフリーに似てたよ、いまの」
「うそ、」
「そうだな、実はここ数日、一睡も出来てないんだ…少し寝かせてもらうね」

弱々しく笑ったリーマスは、横になると少し居心地が悪そうに毛布を口元まで被った。
本当に魔法をかけたほうがいいかナマエが考える間に、意外にも彼はすぐに目を閉じて、寄っていた眉間の皺をすっと緩める。

「……ほんと…君はいつも、やさしくて強引だな…」

微睡に引きこまれる間に、リーマスがぽつりと小さくこぼした言葉に、ナマエは体を強張らせた。

「………いつも、って…」

掠れる声に、彼の返答はない。
ナマエのことを"優しいけど強引な子"とリーマスはよく表現していた。それは悪い意味ではなくて、リーマスがその強引を楽しんでいるのを知っていたから、ナマエはそう言って呆れたように笑う彼が好きだった。そう言いながらも、ナマエの手を当たり前のように握り返してくれる彼が好きだった。

でも、彼の中に"いつも"はもう存在しない、はずなのに。



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