ナマエは何度も転びそうになりながら、グラウンドへ駆け込んだ。ダンブルドアの守護霊により追い出された吸魂鬼たちの冷気が、こびりつくようにまだ辺りに漂っている。取り囲む教師や選手たちを掻き分けて、ナマエは担架に寝かされているハリーの顔を覗き込んだ。
「大丈夫じゃよ、ナマエ。気を失っているだけじゃ」
ダンブルドアが穏やかな声で言うが、その目には吸魂鬼への冷ややかな怒りが見てとれた。ナマエはそっとハリーの口元に手を当て呼吸を確認し、大きな外傷もないことにほっと息を吐いた。ダンブルドアの魔法が、彼を地面への直撃から救ったのだ。頭ではもう大丈夫だとわかっているのに、膝の震えが止まらなかった。
「ナマエ先生。ハリーはわしとマダムポンフリーで診ておるから、先生はショックを受けている生徒たちのケアと城への誘導を」
「……わかり、ました」
啜り泣く声や、気分が悪そうに項垂れている生徒たちを見て、ナマエはぎゅっと足に力を入れた。
ダンブルドアが、浮かぶ担架でハリーを運ぶのを、ショックを受けた様子でロンとハーマイオニーが見つめている。ナマエが二人の肩にそっと手を置くと、ハーマイオニーが堰を切ったようにわっと声を上げて泣いた。
「もう大丈夫だよ、ハーマイオニー」
「ハリー、わたし、もう、だめかと……っ」
「二人とも、怖かったよね。大丈夫。ハリーに付き添ってあげてくれる?」
二人はこくこくと頷くと、ダンブルドアの後を走って追いかけて行った。ナマエもついて行きたい気持ちでいっぱいだったが、他の先生と連携して生徒たちを安全に城に帰すのが優先だ。医務室の備蓄のチョコレートで足りるだろうかと思案しながら、ナマエはもう一度、競技場の1番上の席を見上げた。さっきまでシリウスがいたはずの場所には、もう誰の気配もなかった。
ハリーは軽い打身程度で済んだが、試合に負けたことと箒を失ったことにひどくショックを受けているようだった。ハリーのニンバス2000は操縦者がいなくなったことで、闇雲に空を暴走し、あろうことか校庭の真ん中の暴れ柳にぶつかってしまったのだ。小枝のかたまりとなったそれを、ハリーはベッドサイドテーブルに集めて、沈んだ顔でことあるごとにじっと眺めていた。週末いっぱいは医務室で過ごすことになった彼を、立ち代わり入れ代わりに友人たちが見舞いに来ていたが、誰もハリーの気持ちを浮上させることは出来なかったようだ。
深夜0時の手前。杖先にほんのわずかな灯りを灯して、ナマエは医務室のドアを開けた。カーテンが開け放たれたままの窓の向こうに、まん丸の黄金色の月が、ナマエを迎え入れるようにぽっかりと浮かんでいた。満月の光が、ぐるりとカーテンに仕切られたベッドに差し込み、人の影をぼんやりと映し出す。ナマエは杖灯りを消して、そっと囁いた。
「……ハリー?」
カーテンの向こうで、もぞもぞと動く気配がした。やっぱり、とナマエは静かにベッドに近づく。
「眠れないの?」
「………ナマエ先生?」
ハリーがカーテンを開けて顔を覗かせた。
ひどく疲れ切った顔に困惑と安堵を乗せた彼は、ベッドサイドから眼鏡を拾って、どうしたんですか?と再びナマエの顔を見る。
「日中、疲れた顔をしてたから、あまり寝れてないんじゃないかと思って」
「………」
「眠れる薬を出そうか?」
一瞬、ハリーの瞳が泣きそうに歪んだ。
軽く唇を噛んで、シーツを握る自分の手元をじっと見つめる。何かを言うべきか言わざるべきか、考えているように見えた。しばらく俯き続けたあと、彼は顔を上げずに呟いた。
「眠ろうとすると、声が聞こえるんです…」
「声?」
「……母が、ヴォルデモートから僕を守ろうと、命乞いをする、声」
胃をぎゅっと強く掴まれる感覚がした。
色々と考えていたことが頭から一気に抜け落ちて、なにひとつ言葉が出てこない。顔を伏せているハリーは、ナマエの表情には気付かずに続ける。
「吸魂鬼が近付くと、聞こえるんです。ハリーだけは助けてって悲鳴が。あれはきっと母の声で…ヴォルデモートの笑い声も……眠ろうとすると、それを思い出すんです」
ナマエはハリーの頭を抱きしめようと手を伸ばしかけて、直前で思いとどまった。代わりにシーツの上の手を握る。ハリーはびっくりしたように顔を上げたが、ナマエの顔を見て、その表情を写しとるように、エメラルド色の瞳を歪めた。
「……母の声を、初めて聞きました」
「………うん」
「僕は、覚えてないのに…どうしてハッキリと聞こえるんでしょう」
「……吸魂鬼は、その人の最も恐ろしい体験を思い出させるの。たとえ覚えていないことでも」
ハリーはまた口を閉じた。
彼が唯一聞いたリリーの声が、そんな言葉だなんて。怒りと悲しみが同時に渦巻いて、ナマエもそれ以上何も言えなかった。口を開いたら、声が震えてしまうと思った。
"ハリーだけは助けて"
その言葉を頭の中で反芻する。考えない方がいいことは分かっているのに、その言葉からリリーの最期を想像してしまう。おそらく彼女は、自分が助かることは一欠片も考えてなかっただろう。きっと、ただハリーのためだけに、憎くてたまらないヴォルデモートに懇願したのだ。
「……先生?大丈夫?」
ハリーのひっそりとした心配そうな声に、はっとして手を離した。無意識のうちに奥歯をぎゅっと噛み締めていた。
「ごめんなさい、大丈夫」
「あの……ナマエ先生。母とも知り合いなんですよね?母は、どんな人でした?」
彼の純粋な質問に、ナマエは一瞬答えるべきか迷った。けれど、その瞳がまるで迷子の子供のようで、それを無視するようなことはどうしてもできなかった。
「……すごく勇敢で、優しい人だった。みんながリリーのことを大好きだったよ」
「ハグリッドも、そう言ってました」
「うん。努力家で、成績もよくて。魔法薬学は特に得意だった。首席だったけど、全然それを自慢するようなこともなくて…あ、でもね、彼女って結構頑固なところもあって。一度こうと決めたら、本当にびっくりするくらい譲らないの。私、朝食のパンに何をつけるかでーー」
ハリーのぽかんとした表情を見て、ナマエははっとして口を閉じた。喋りすぎてしまったと、途端に後悔する。
「……ごめん。私もあなたのお母さんのこと、大好きだったの」
「……先生は、母たちにお世話になったって言ってましたよね。どういう関係だったんですか?」
「うん…知り合い…ううん、恩人、かな」
曖昧な言葉を選んで、ごまかすように笑う。
本当は、親友だと胸を張って言いたい。ハリーがポッター家に来てくれたことを一緒に喜んだ仲だと。あなたの名付け親になるかもしれなかったのだと。リリーたちの昔話を、飽きるほど話してあげられたら。
「(話したところで、きっと信じてもらえないけど)」
ナマエの腕時計が、カチリと音を立てた。あの雪の日に壊れたマグル式の腕時計は、なぜかこの時代に来た時から直っていた。正確に0時を指した針を見て、ナマエは自然と窓の外を見た。
満月が、一番高いところで輝いている。
「ナマエ先生は……」
ひっそりとした遠慮がちな声。
ハリーのエメラルド色の瞳を、月の明かりが淡く照らす。声音に反して真っ直ぐな視線に、目を逸らせなくなった。
「何か、秘密にしてることがありますよね?」
"ナマエ、何か隠し事しているでしょう"
リリーの声が聞こえた気がした。
なんでもお見通しな彼女の、子供を叱るような優しい声。ナマエが悩み事や秘密を抱えたとき、いつも一番最初に気が付いてくれたリリーは、いつだってナマエのことを信じてくれていた。
「……うん」
自然とこぼれた肯定の言葉。
おそらく否定されると予想していたのだろうハリーが、びっくりして言葉を探している様子がなんだかおかしくて、ナマエは思わず微笑む。
ハリーが意を決したように、前のめりになった。
「僕に、その秘密、教えてくれますか?」
「そうだね……その時が、きたら」
「その時?」
「私が話してもいいと思えたとき」
つまり教えないという答えに、ハリーが不服そうに眉間に皺を寄せる。
その皺を伸ばすように額をつついて、ナマエは笑った。
「ひとまず今日じゃないかな。もう0時も過ぎたし。寝れそう?薬飲む?」
「……あの、こんなことを言うのは、ヘンだとわかっているんですけど」
ナマエが立ち上がり、月明かりが眩しかった窓をカーテンで覆う。代わりにかろうじて顔が見える程度の弱い灯りを杖先に灯した。訪れた暗闇の中で、ハリーがナマエのローブを掴んだ。
「僕、先生と、ずっと前に会っていたような気がしてるんです」
「……」
「…だから、ナマエ先生のこと、もっと知りたいというか…」
「ハリー、それは、口説いているの?」
にやりと笑うと、慌てた様子でローブからぱっと手が離れる。
ぼんやりとした灯りでも、ハリーが顔を真っ赤にしていることが分かって、ナマエは思わず笑いをこぼす。
「ふふ、冗談だよ。そう思ってくれて、ありがとう」
「いえ、あの、僕…その……すみません」
「あはは、ごめんごめん。そうだね、私もハリーのこと知りたいな」
ナマエはもう一度椅子に腰を掛けて、杖を振った。湯気を立てたホットミルクが、ベッドカーテンを割いてサイドテーブルの上に着地する。
「せっかくだから、眠くなるまで話でもしてよっか」
「いいんですか?」
「病棟には今ハリーしかいないし、好きな子の話だってしても大丈夫だよ」
ナマエが悪戯っぽく笑うと、ハリーは照れるでもなく複雑そうな顔をした。まだ恋の話にあまり興味がないのだろう。それがまた子供らしく可愛げがあって、思わずまた笑ってしまう。
「ハリーのことを教えてほしいな」
「僕のこと?」
「うん。ハリーが今まで一番嬉しかったこととか、楽しかったことが聞きたい。あ、ロンとハーマイオニーとは、どうやって仲良くなったの?」
ハリーはぽつりぽつりとホグワーツでのこれまでの出来事を話し出した。
ロンとハーマイオニーと汽車で会った時のこと。初めて箒に乗った時のこと。クリスマスプレゼントをもらった時のこと。
話していくにつれて、沈んでいたハリーの表情が少しずつ柔らかくなっていって、自然と彼の口から欠伸が溢れたときには、随分と月が傾いていた。
「……おやすみ、ハリー」
うとうとと彼の目が閉じたのを見て、ナマエは魔法で彼の身体をゆっくりと倒して布団をかける。今度こそ彼がうなされることがありませんようにと願いながら、灯りをふっと消した。
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