それから数日間、ホグワーツはシリウス・ブラックの話で持ち切りだった。
医務室には、恐怖心と好奇心に駆り立てられた生徒たちの噂話が自然と集まってくる。シリウスが樹木に変身できるだとか、天文台の塔の秘密部屋に住んでいるだとか、吸魂鬼と会話ができるのだとか。子供たちの斬新で突飛な発想を、ナマエは邪険に扱うことはせず、ひとつひとつ丁寧に聞いていた。
もしかしたら、シリウスに繋がる情報が少しでも手に入るかもしれないと思ったからだ。

シリウスにもう一度会いたい。会って彼の口から話を聞きたい。
その願いは、彼が殺人鬼だと聞かされた時から、今も変わっていなかった。


ナマエはダンブルドアからあの夜のことを尋ねられる覚悟でいたが、数日経ってもその話題を振られることはなかった。どうやら、リーマスは本当に、森にあったもう一つの足跡について報告をしていないようだ。そのことを彼にもう一度訪ねたかったが、彼はほとんどナマエの前に姿を現さなかった。もうすぐ月が満ちようとしているのだ。見かけるたびにリーマスが衰弱していっているのが手に取るように分かり、とてもではないが声をかけることはかなわなかった。



「……スネイプ、いいかげんにしてほしいんだけど」

夕食を終え医務室に向かう途中、後ろから続いてくる足音に、ナマエは耐え切れずにイライラとした声を上げた。
恨みを込めながら振り向くと、スネイプがぴたりと足を止める。

シリウスはもう校内には留まってはいないと誰もが思い始めていたが、ただ一人、スネイプだけが、ナマエの行動に神経を尖らせていた。

「なに?ストーカなの?」
「……」
「私をシリウスの内通者だと思っているんでしょう?」

スネイプの暗い瞳が、怪しい光を灯す。
口元に薄笑いを浮かべた彼に、ナマエは内心で舌打ちをした。
まるで監視しているとでもいうような執拗な彼の行動に、苛立ちがつのるばかりだ。

「私のことを覚えていない人と、どうやって内通するっていうの?」
「さあ、どうだろうな。だが、そうでないという証拠もない」
「まあ、勝手にすればいいけど」

ナマエは冷たく言うと、医務室の扉を開けた。
授業に慣れてきた生徒たちの緊張感がなくなってきているうえに、週末に迫ったグリフィンドールとスリザリンのクィディッチ試合の練習が重なり、保険医の仕事は多忙を極めていた。スネイプの監視も相まって、シリウスを探しに行く余裕もなく、ただ気持ちだけが焦るばかりだ。こうしている間にも、彼が捕まってしまったら。話をすることが二度と叶わなくなってしまったら。考えるだけで、背筋が冷たくなる。
スネイプは医務室に入るつもりはないらしく、あっさりとそのまま廊下を通り過ぎていった。

「ナマエ先生!」

誰もいないと思っていた医務室から声がして、ナマエはびくりと肩を震わせた。
ぐっしょりと雨と泥に濡れたフレッドとジョージ、そしてハリーが落ち着きがない様子で椅子に座っていた。確か今日は試合前最後の練習だったはずだ。

「びっくりした、ごめんね、待たせちゃった?」

マダム・ポンフリーはまだ夕食をとっていて不在のようだ。
ナマエは杖をひと振りし三人の泥を払い衣服を乾かすと、怪我の確認をしようと腕をまくった。しかし、それよりも前に彼等は立ち上がると、ナマエに駆け寄ってわっと声を上げた。

「先生から言ってやってよ!」
「え?なにが?」
「マルフォイだ!まだ怪我が治ってないって言いやがる!」

怪我、というのは、先日のヒッポグリフの授業で負った傷のことだろうか。
彼等がひどく怒っているので、ナマエはひとまず三人を座らせて、温かいココアを手渡した。ハリーがぶるりと体を震わせたので、暖炉に杖を向けて薪を増やす。悪天候が続いた最近は、一気に冬の空気に変わってきていた。

「……なるほどね。この天気の中試合をしたくないから、怪我が治っていないフリをしているのね」
「先生から、仮病だって言ってやってよ!」
「うーん、本人が痛いと言うのは、どうにも……」
「「そんなあ!」」

フレッドとジョージが絶望した声を上げる。

「僕たち、ずっとスリザリン対策の練習をしてきたんです」
「うん、そうだよね」
「フェアじゃない!勝ち目がないからって逃げるなんて!」
「ナマエ先生もそう思うだろ!?」

憤りの声を上げる三人に、ナマエはそれぞれの言葉を最後まで聞いた後で、にっこりと微笑んだ。

「確かに、君たちの言うとおりだと思う。でも、相手は逃げて、君たちは逃げなかった。それがどういうことかよく考えてみて」
「……」

顔を見合わせた双子が、しばらく黙った後、同時にふっと眉を下げた。
逃げなかった事実は、きっと近い未来で彼らの自信になる。それこそ、スリザリンと試合をする時には必ず。

「どんな天気でも、絶対に応援に行くから。必ず勝ってね」
「先生、グリフィンドール応援するって言っていいの?」
「あ、そうだった」

自分で特定の寮を応援する立場じゃないと言っておきながら、自然と出てしまった言葉に思わず笑ってしまう。内緒ね、とナマエが悪戯っぽく微笑むと、三人の肩から力が抜けたようだった。

「ナマエ先生って、もし組分け受けたら、きっと僕たちと同じ寮だよな」
「……そう?」
「うん、僕もそう思う」

うんうん、と頷きながらハリーが笑った。
自分もグリフィンドールだったのだと本当のことを言うことができたら、きっと彼らは喜んでくれるだろう。言えないことをもどかしく思いつつも、彼等の表情が柔らかくなったことに安堵して、ナマエはそっと微笑んだ。



試合当日、天気は予想していたよりも遥かに最悪だった。
横なぶりの雨に、段々とこちらに近づいてくように思える雷鳴。城からクィディッチ競技場に来るまでの間に傘は使い物にならなくなった。ナマエはマントに防水魔法をかけ、教員用の観客席に座った。マクゴナガルが「よく来てくれました!」と言ったように聞こえたが、雨風の音が大きくて定かではない。ここまで天候が悪いと、勝負の行方よりも事故が起こらないかのほうが心配だった。

競技場の中心に、真紅とカナリアイエローの影が向かい合って並ぶ。
ホイッスルの音は聞こえなかったが、選手たちが一斉に空へと散り散りになり、試合が開始したようだった。ナマエは真紅の影に必死に目を凝らした。スニッチはおろか、一番大きいクアッフルですら見つけることが出来ない。

「ああ、本当に心臓に悪い…」

マクゴナガルが胸の前でマントをぎゅっと握って何度か悲鳴を上げた。
試合が進むにつれて、次第に雨風は強くなっていく。生徒たちの声援にも熱が入るが、おそらく選手たちには届いていないのだろう。
突然、夜のように暗い空を引き裂いて稲妻が走った。あまりの音の大きさと光に、禁じられた森に落ちたのかもしれない、と顔を上げ、ナマエは息を呑んだ。

大きな犬が、誰もいない一番上の観客席に、じっと佇んでいた。

「シリウス…?」

思わず呟いてしまった言葉が、雨の音でかき消されてくれて助かった。
ナマエは慌てて席を立つ。ちらりとスネイプを探したが、雨風を凌ぐために皆が同じような格好をしており、彼がいるのかどうかも判断がつかなかった。
フードを目深に被り直し、もつれそうになる足でスタンドの一番上の席に向かう。わあ、と歓声が上がる競技場を背にして、必死に階段を上った。
階段の上、雨のカーテンの向こうに佇む大きな影が視界に入ったところで、ナマエはぴたりと足を止めた。ひやりと喉元に冷たいものを感じた気がして、咄嗟に両手で喉を覆う。耳の奥で心臓の音がやけにはっきりと聞こえていた。
ナマエが感じていたそれは、確かな恐怖だった。

「(シリウスに会うのが…怖い?)」

また拒絶の目を向けられて、自分のことを覚えていないことをまざまざと見せつけられることを考えると、呼吸を忘れてしまいそうになる。
シリウスに、何を伝えればいい?何を言えば信じてもらえる?
何度となく考えてきたはずなのに、結局何も答えが出せないままここに居る自分が酷く愚かしく思えた。むしろ、シリウスにとってナマエは、彼の正体を知っている邪魔者でしかないのだ。

「(それでも、)」

あの森での出来事を"忘却"させられていないことを、少しの希望だと思ってはだめだろうか。

ぐっと拳を握り、ナマエは細く息を吐いた。
水溜まりを蹴り上げながら、再び階段を上がる。
一番上まで登り切ったところで、ナマエは雨音に負けないように叫んだ。

「シリウス!」

真っ直ぐにグラウンドを見つめていた大きな犬が、弾かれるようにこちらを向いた。
雨と泥に濡れ、毛並みが萎んだ彼は、ひとまわりほど小さく見えた。灰色の瞳が、ぎらりと攻撃的な光を帯びて細められる。ナマエはフードを外した。ひどい雨が顔を殴り、一瞬で髪が水を含んで重たくなっていく。空っぽの両手を顔の横に上げ、星の消えた瞳を真正面から見据えた。

「あなたと、話がしたいの」

大きな黒い犬は、少しも動かずにじっとナマエを見つめていた。ナマエはもう一度息を大きく吸った。

「あなたの味方になりたい」

ナマエが一歩彼に近づいたその時、今までで一番大きな稲妻が空を走り、ナマエたちの背後で強烈な光を放った。耳をつんざくような音に、ナマエは思わず肩を縮め目を閉じる。バリバリと地を這う音が止んで、目を開けた時、そこにシリウスの姿はなかった。

「待って、お願い、」

寒さを思い出したように体が震えた。
慌てて辺りを見回すが、見えるのは視界を埋め尽くす雨と霞だけ。スタンドの下へ飛び降りたのだろうか。もう一度フードを被り直し、階段を駆け下りようとしたところで、周囲の音が引き潮のようにサァァと遠くなり、やがてぷつりと消えた。

「……?」

なにかを呟いたはずの自分の声までも、空気に吸い込まれたかのように消失する。耳が痛いほどの静寂の中で、ナマエはグラウンドで蠢くそれを見た。

グラウンドを覆い尽くす、数えきれないほどの、吸魂鬼。
ミイラのような腕が、何かを乞うように空に向かって無数に伸ばされている。音のない世界で、そのうごうごという動きから目が離せなくなった。

途端に、指先から冷水が血管を駆け上がるような感覚がして、目の前で緑色の閃光がチカチカと走った。降りしきる雨が、突如として雪へと変わる。シリウスが自分を呼ぶ声が聞こえる。この間よりもよりはっきりと、彼が自我を失う前の、最後の言葉が――

"あいしてる…"

消え失せようとしていた意識を呼び戻したのは、狭まる視界の中で、地上の吸魂鬼に飲み込まれるように真っすぐ宙を落下していく真紅の影だった。ナマエにはそれが誰なのかがすぐに分かった。全てを塗りつぶすような雨音と、会場の悲鳴が一瞬にして戻ってくる。
ナマエは再び階段を転がり降りながら、地面へと落ちていく彼の名前を必死に叫んだ。

「ハリー!!!」



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