「ああ…よかった」

ぼんやりと滲む視界の真ん中で、心の底からほっとしたようなリーマス・ルーピンの顔があった。
ナマエはぱちぱちと何度か瞬きをし、上半身を起き上がらせたが、頭がひどく痛み、うっと目を閉じる。ガンガンと殴られるように後頭部が揺れていた。じっと様子を伺うように見つめるリーマスに、何か言おうと口を開いても、からからの喉から音が出ない。察した彼が杖を振ると、ナマエの手にガラスのコップが滑り込んだ。

「ありがとう、リーマス」
「…………ああ」

常温の水を口にすると、頭痛が少し和らいだ。同時に、意識がじんわりと鮮明になっていく。
黙ったままこちらを心配そうに見ているリーマスは、先ほどまで大広間で一緒に食事をしていた青年の姿からずっと大人になっていた。白髪が混じり始めた鳶色の髪に、目の下に出来た隈が、疲れた様子を強調している。ああ、と徐々にクリアになっていく頭で状況を理解する。

「(……夢が、終わったんだ)」

さっきまで確かにシリウスの手を握っていたはずの手は、冷たいガラスの感覚を確かに感じていた。頭の痛みも、部屋のどこからかする甘い香りも、冷たい手の感覚も、すべてがここが現実だと物語っていた。
みていた夢の内容は、ぜんぶはっきりと覚えている。まるで本当に昨日のことのように。今すぐにでもあのドアの向こうから、17歳の彼等が入ってくるような気さえした。

「…大丈夫かい?」

とても遠慮がちなリーマスの声に、はっとするが、笑顔を返そうとして、うまくいかない。ぽっかりと胸に穴が空いたような喪失感があった。何も答えないナマエに、リーマスは眉を顰めたあと、もう少し寝ていたほうがいい、とコップを取り上げて背中を支えた。

「(…夢に浸っている場合じゃない)」

決めたじゃないか。
ナマエは大きく息を吸い、細く吐いた。

「ルーピン、先生。シリウス・ブラックは見つかりましたか?」
「…いいや。見つからなかったよ」
「そうですか…」

よかった、という言葉をなんとか飲み込む。目を閉じると、初夏の光の下、きらきらと眩しい彼の笑顔が浮かんだ。
よかった、まだ、チャンスがある。
もう一度目を開けると、さっきよりも周りの状況をよく理解することができた。衝立で仕切られているが、ここはリーマスの部屋だ。以前一緒に紅茶を飲んだから覚えている。医務室でも自分の部屋でもなく、彼の部屋にいることが不思議だったが、それを聞くよりも先にリーマスが口を開いた。

「なにがあった?」
「…え?」
「森の中で倒れていた君を、わたしとハグリッドが見つけたんだ。死んでいるようにぐったりしていて…もう半日も眠ったままだったんだよ」
「半日も?」

部屋の中が薄暗くて、そんなにも時間が経っていると思っていなかった。
たしかに、半日ほどの夢を見ていたけれど、吸魂鬼一体にそこまでダメージを受けてしまったのだろうか。それとも、気を失う直前に、杖を自分に向けていた彼が、何かーー

「森の中を捜索していたら、吸魂鬼がいて…追い払ったんですが、そのまま気を失ってしまったみたいで」

シリウスと出会ったことは伏せて説明をする。
ひとつずつ順番に思い出してみても、不自然なことは特にない。シリウスが吸魂鬼から助けてくれて、そのあと押さえつけられて、杖を向けられた。そこで記憶が途切れているから、気を失ったのだろう。
それとも、気を失ったと思い込んでいるだけで、本当はその先に何かがあったのだろうか。

「…ごめんなさい」
「本当に…それだけ?」

あまりにも険しい瞳で黙ったままじっとこちらを見つめるリーマスに、思わず謝罪の言葉が口をつく。問いかけるリーマスの声色には、どこか緊張感があった。まるで口にすることに不安があるように、彼は囁くような声で言った。

「ぬかるみに、足跡が、もうひとつあったんだ」
「…っ」
「誰かほかに一緒にいたのかい?」
「…いいえ。私が知る限りは…」

責められているような気持ちになり、ナマエは瞳を伏せる。リーマスに事実を伏せるのは胸が痛かった。

「そうか…君の杖が近くに落ちていたから、直前呪文を確認したけど、特に変わったことはなかったよ」
「…忘却呪文も?」
「なるほど、そうだね…ああ、それもなかった」

シリウスはあの時ナマエに向けていた杖を、何もせずに下したのだ。
リーマスたちの気配を感じて諦めたのか、他の意図があったのか、その真意はわからない。

「…とにかく、目が覚めてよかった。わたしはダンブルドアに報告してくるから、もう少しここで休んでいるといい」
「あの、どうして先生の部屋に…?」

リーマスは目を丸くすると、ナマエが目覚めてからずっと緊張させていた目元を、ふっと力が抜けたように緩めた。

「君が医務室で寝ていたらみんなびっくりするだろう?勝手に君の部屋に入るわけにもいかないしね」
「そ、っか。そうですね、ありがとうございます」

リーマスは一度衝立の向こうに消えると、湯気のたつ大きなマグカップを持ってきた。最初にナマエが感じた甘い匂い。ホットチョコレートだった。

「全部飲むんだよ。わたしは報告したら朝食を持ってすぐ戻ってくるから」
「あ、ありがとう…あの、もしかして…半日ずっと付き添ってくれてたんですか?」
「……心配性だからね」

にこ、と微笑んだ彼は弱々しくて、ずいぶんと寂しい感じがした。ナマエが森に入ったのが23時頃だったから、一晩彼が看ていてくれたことになる。
もう一度お礼を伝えると、彼は無言でナマエの頭を撫でた。ふわふわと、髪が崩れないくらい優しい指先。彼がよくやる癖。あの頃の彼を思い出して、視界が少し滲んだ。
ナマエが俯いたまま何も言わずにいると、手を止めたリーマスがぽつりと呟いた。ナマエに言っているようで、独り言のような声量だった。

「…足跡のことは、だれにも言っていないんだ」
「え?」
「…何かわたしに話せる時がきたら、教えて」

それは、足跡について何か思い出したら、という意味だろうか。ナマエが聞き返す前に、リーマスはさっと踵を返して部屋を出て行ってしまった。

しん、と静まり返った部屋で、ナマエは手の中のホットチョコレートを一口飲んだ。指先にぴりぴりと熱が広がって、自分の手がひどく冷えていたことに気がつく。
これからどうしようか、頭の中を整理しながら、リーマスの部屋を見回す。本棚に見知った小説が並んでいる。学生の時に貸してもらったことがある本だ。その上に飾られているぶさいくな鹿の置き物は、ジェームズが旅行のお土産にとみんなに配ったもの。なんだこれ、とみんなで笑いあった。
知らない部屋だけれど、知っている彼の思い出が垣間見れて、少し嬉しい気持ちになる。それと同時に、知らない物の数々も、彼との失った十数年間を拾い集めて教えてくれているようで、切なくも嬉しかった。
ナマエはホットチョコレートを半分飲んだところで、やはりもう少し横にならせてもらおうと、ベッドサイドのテーブルにマグカップを置いた。ふと、テーブルに立っている写真立てに目をやり、息を呑んだ。

見慣れた写真だった。
ナマエがいつも肌身離さず持っている、卒業式の写真。リリーが学校最後の日に全員に渡してくれた、お揃いのお守り。きちんと額に飾られて、ベッドサイドの特等席で、若い彼等と黒塗りの自分が、こちらに向かって手を振っている。

「……リーマス…」

彼がこの写真をどんな気持ちで毎日眺めているのかを考えて、息が苦しくなった。
写真の中で楽しそうに笑いあう彼等には、もう、会えない。会えないことを分かっていても、何度でも眺めて傍に置いておきたい気持ちが、ナマエには痛いほどわかった。リーマスは、どんな表情で、この写真と向き合っているのだろう。自分と同じように、彼にとってもこの写真はお守りなのだろうか。それとも、

「……え、あれ?」

自分の持つ写真も確認したくなり、ナマエは着ていたベストのポケットを探った。
しかし、そこには何もない。
さっと血の気が引く。慌ててスカートやシャツのポケットも確認し、最後にベッドにかけられていたローブのポケットを確認する。

「はー…よかった……」

ローブの内ポケットから出てきた写真に、安堵のため息をもらす。ベッドサイドの景色と同じものが、ナマエの手の中にもあった。これだけが、ナマエにとって彼等との唯一の繋がりだった。絶対に何があっても失くしたくない。ぎゅっと胸に閉じ込めて、震える息を吐く。それにしても、いつローブのポケットにしまったのだっけーー

「ナマエ先生、入るよ」

ノックの音とリーマスの声がして、ナマエは慌てて写真をベストのポケットに突っ込んだ。それから、半分しか飲んでいなかったホットチョコレートを喉に流し込む。軽く咳き込んだところで、衝立から顔をのぞかせたリーマスが「顔色が少しよくなったね」と微笑んだ。

「吸魂鬼のことは、ダンブルドアに報告しておいたよ。生徒たちも通常の授業に戻っているから、君も朝食を食べたら医務室に戻れるかい?」
「はい、すみません、ご迷惑をおかけして…」

リーマスが、ベッドサイドの写真立ての前に朝食を置く。ナマエはドキリと体を強張らせたが、彼は何も言わなかった。
リーマスがポットから紅茶を注ぐ。立ち込める匂いは、夢の中で感じることができなかった、懐かしいイングリッシュブレックファーストの香りだった。

「コーヒーのほうがよかったかな?」
「いいえ、紅茶が好きです」
「そっか、よかった。なんとなく…君が好きな、気がしたんだ」

そう言って微笑んだリーマスは、ひどく孤独そうで、ナマエは思わずその手を握りたくなった。
写真の中で彼を囲むナマエたちは、もうあの頃の関係性ではなくなってしまった。

私がいるよ、と彼の手を取ることができたら、どれだけ幸せなのだろうか。


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