散歩、と言うのだから徒歩で移動するのだとナマエは思っていたが、シリウスは杖を振って自身の箒を呼び寄せた。二人乗りでいいよな、とにやりと笑うと、ナマエの返事を待たずに手を引く。促されるまま彼の背中にしがみついて、降り立ったのは天文台の塔のてっぺん、ホグワーツで一番高い場所だった。

夏のはじまりの空は高く、連なる山の向こうに入道雲が見える。ホグワーツの全体が見下ろせるここは、ナマエのお気に入りの場所だった。ここも見納めだなーとシリウスが呟く。

「……俺がここで告白したときのこと、ちゃんと覚えてる?」

悪戯っぽく茶化すように言うシリウスに、当たり前でしょうと笑って返す。

「すごくびっくりしたから、覚えてる」
「俺、その前からずっと口説いてたつもりだったんだけど…」
「え?うそでしょ」
「…お前がそうやって鈍感だから苦労したんだよなあ」

5年生の冬。夕飯を食べ終わって自室でのんびりしている時間帯に、突然シリウスが箒に乗って窓の外に現れて、「二人乗りでいいよな」なんて今のように天文台の塔まで連れてこられて。澄んだ空気の満天の星空で、どの星よりも明るく輝いている"シリウス"を見上げたことをよく覚えている。
正直、シリウスが自分に恋愛感情を抱いているだなんて、ナマエはこれっぽっちも考えたことがなかった。
シリウスはその容姿や目立つ立ち位置から、声をかける女の子が後を絶たなかった。けれど、特定の誰かと長く続くことはなくて、あくまでも恋愛は日常のおまけのような扱い方。彼にとってジェームズたちとの友情が何よりも優先なのは明白だった。
だから、ナマエは当時抱いた淡い恋心を、友情だと思い込もうと必死に頑張っていた。
彼との関係を壊したくなかったから。

「……正直言うとさ、あのときナマエ、レイブンクローのジャックと仲良かっただろ?」
「そうだっけ?」
「で、ジャックがナマエに告白するって噂を聞いたから、すげー焦って。あんまりプランも立てずに勢いで告白したんだよな」
「…そうだったんだ」

はじめて聞く話だった。
自分の見ている夢なのに、まるで本当のことのように思えてしまう。もしかしたら、無意識にそうだったらいいのにと思っていたのだろうか。シリウスがどうしても自分を欲しいと思ったくれていたなら、とても嬉しい。

「俺、必死でかっこわるかっただろ」

笑い話にしたいらしいシリウスは、そう言って笑う。
ナマエは首を横に振った。

「私は、嬉しかったよ。すっごく。シリウスがストレートに好きだって言ってくれて」
「……そっか」
「…自分で話振っておいて、照れないでよ…」

シリウスが、ふいと視線を逸らす。前髪を撫でるのは、彼が照れ隠しでよくやる仕草だった。黙ってしまった彼に、ナマエもそれ以上言葉を続けず、二人で黙ったまま、思い出の詰まったホグワーツを眺めた。
こっそりとホグズミードに遊びに行った抜け道のある廊下。みんなで昼寝をした中庭のベンチ。クリスマスにジェームズがリリーに告白したヤドリギの木。何度も通ったクィディッチ競技場のほうで、歓声があがる。青と黄色のユニホームが試合をしているようだった。私的な卒業試合だろうか。

なんだか明日も、明後日も、ずっとこの生活が続くのではないかという感覚になった。あまりにも、流れる空気が平穏で。学校の外で起こっている戦争も、現実の世界で起こっている悲しい結末も、全部が嘘で、ここが本当の世界なのではないだろうか。

「ナマエ、俺さ、」
「うん」

シリウスがこちらを見た。

「何があっても、お前と離れる気はないから」

ナマエは返答に詰まった。
私もだよと返すべきなのに、返したいのに、シリウスの星を集めたような灰色の瞳が、あまりにも真剣で、夢だとしても嘘をつけないと思ってしまった。

だって、離れてしまう未来を知っている。

「これから先のこと、不安なことばかりだと思うけどさ、ナマエのこと、俺がずっと守っていくから」
「……シリウス」

雪の中、必死に守ろうとしてくれた彼の姿がフラッシュバックする。もうあれはナマエにとってだけの事実なのだから、夢として忘れてしまえばいいのに、ずっとこびりつく恐怖。シリウスの手を握りたくて伸ばした右手は、同じように伸びてきた彼の手に包まれた。温かい、気がした。

「だからさ、一緒に明日を生きような」

まるで、「明日一緒に宿題やろう」というくらいの、気楽な言い方だった。眩しいくらいの笑顔の彼からは、わざとだろうけれど、不安な様子は微塵も感じなくて。明日の生死が約束できないからこそ出てくる言葉であるにも関わらず、絶対に最後まで生きてやるんだという前向きで力強い言葉。

それは、ナマエが誰よりもシリウスと叶えたかった願いだった。

「……ほんと泣き虫」
「うるさい…」
「そういうとこも、好きだ」
「…うん」

知ってる。
彼が終わりまで一緒にいてくれようとしていたこと。何を失っても守ろうとしてくれていたこと。

彼がどれだけ自分のことを信頼して、大切にしてくれていたか。自分がどれだけ彼のことが大事だったか。
失った十数年の出来事を人伝に聞くたびに、段々と分からなくなっていた。自分の方がおかしいのではないかとさえ思えてしまうほど。でも、彼の優しい笑顔に触れて、全てが実感を伴って蘇る。

「明日も、笑っていてくれる…?」
「なんだよそれ。俺はナマエといれたら、それだけで多分ずっと笑ってるよ」

照れ臭そうに笑うシリウスが、ナマエの涙を親指でこする。大きな手がそのまま頬を包んで、触れるだけのキスをした。

ああ、そうだ。
まだ終わってない。
現実では、彼はまだ、生きている。
ナマエの明日に、まだ彼は生きている。
一緒に生きる明日は、あの雪の日に終わってしまったけれど、彼が幸せに生きられる明日はまだあるはずだ。

「…私が、シリウスを守るよ」
「ん…ナマエって時々すげえ男前だよな」
「誰かさんたちの影響かな」
「はは、光栄だな」

また、クィディッチ場から拍手と歓声があがった。試合が終わったのだろうか、軽快な音とともに、いくつかの魔法の花火が空に上がる。それに呼応するように、中庭や他の塔からも、色とりどりの花火があがる。卒業生が学校を後にするときに、在校生が送り出すためにする習わしのようなものだった。
もうすぐ、汽車が出発する時間だ。

「…行くか」
「うん」

シリウスが手を差し出して、それを握り返す。
彼の手を握り返すことはもうできないかもしれない。この夢が最後かもしれない。
でも、もう振り返るのはやめよう。
見据えるのは、本当の明日。

「シリウス」
「ん?」

箒を握った彼が振り向く、初夏の光を浴びてきらきら輝く黒髪と、星を集めた瞳が眩しい。
だれよりも大切な人。

「大好き」

きょとんとしたあと、俺もだよ、と嬉しそうに笑った彼の明日を、繋ぎたい。

だから、もう一度あの場所に、帰ろう。



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