必死にバランスを保ってきた心が、崩れる時は一瞬だった。

ここに居たい、というナマエの言葉を、シリウスは"ホグワーツに居たい"という意味で受け取ったようだった。俺もだよ、と言いながら、泣き止むまで背中をさすって待ってくれたシリウスを、少し落ち着いた気持ちで見上げる。少し前にリリーが声をかけてくれたけれど、シリウスに任せてそっとしておいてくれたようだった。
星がきらめいているような灰色の瞳が、自分を真っすぐ捉えていることにひどく安心した。

「……ひでえ顔だぞ」

はは、と悪戯っぽく笑ったシリウスが、ナマエの頬を人差し指と親指で挟んだ。さらにひどい顔だ、とまた笑う。

「昨日、写真撮っておいてよかったな」
「うん…」
「大広間、行けそうか?」
「うん」

よっし、と笑って、シリウスはナマエの髪を両手でぐしゃぐしゃと混ぜた。
ずっとここに居たい、という声を、深く追求しないシリウスの優しさがありがたかった。その望みが、叶えられないことは明確だったから。
希望を持たせるだけの口約束はしない。しかし、約束したことは必ず守る。それが、ナマエが好きな、シリウス・ブラックという人だった。

腹減ったなーとなんでもないように言いながら、シリウスがナマエの手を握る。そこではっとした。彼の骨ばった指先が、少し震えている。
現実の時代での平和な生活に慣れてきていたが、今この夢の中は戦争の時代。ましてや自分たちは、不死鳥の騎士団に入団することを決めている。

ホグワーツを出たら、明日には戦って死ぬかもしれない。
ナマエたちがこの時迎えたのは、そういう卒業式だったのだ。

ずっとここに居たい、という願いは、あの頃みんなが抱えていた願いだった。


大広間のグリフィンドール席の、一番後ろのテーブル。
ジェームズたちはいつもその席を好んで使っていた。大広間のドアを開けて、当たり前のようにそこに目を向けると、当たり前のようにこちらに気が付いて、手を振る彼等の姿。
ぎゅっと胸が締め付けられて、まだシリウスに握られたままの右手に力を入れた。
リリーが駆け寄ってきて、空いている左手に手を添える。大丈夫?と小声で聞いてくれる優しさに、ナマエは微笑みで返した。

「お寝坊さん、君の好きなマフィン、残してあるよ」
「ジェームズ…ありがとう」

ほら、座って座って、と促されて、シリウスと一緒に空いていた二つの席に座る。手を繋いで登場なんて見せつけてくれるね、とにやりと笑いながら、ナマエの皿にベーコンやベイクドビーンズを盛り付けていくジェームズが、あまりにもハリーそっくりで今更ながら驚いてしまった。
あまりにまじまじと見つめていたものだから、ジェームズが悪戯っぽく笑う。

「ごめんよ、ナマエ。僕にはリリーがいるんだ」
「はいはい、ジェームズちょっとどいてくれ」

リーマスがジェームズを押しのけてテーブルのティーポットに手を伸ばす。ナマエのティーカップに注がれたイングリッシュブレックファーストは、きっと懐かしい香りがしたのだろう。

「…リーマス」

現実で、呼ばないように気を付けていた名前をそっと呼んでみる。
うん?と首を傾げた彼は、当たり前のように返事をする。ほっとして、ナマエは味のしない紅茶を飲んだ。ありがとう、と伝えると、彼は優しく微笑む。
誰も、ナマエの目が腫れていることに触れないことがありがたかった。

「ピーターはどうしたの?」

机の隅で、一生懸命羊皮紙と睨めっこしている小柄な彼は、ナマエを見て泣きそうな顔をする。彼と会うのは、随分久しぶりな感じがした。ナマエには、ピーターの消息だけが分かっていない。

「…レポート、忘れてて、出さなきゃ卒業取り消しだって…」
「えっ、いま!?」
「はあ?そんなの脅しだろ?」
「でも、マクゴナガルがそう言ったんだよ…」
「…それはマジかも」
「で、僕とリーマスが手伝ってたとこ」

ジェームズがピーターの隣に座りなおす。
本人は地獄のような顔をしているが、助言するジェームズが涼しい顔をしているのを見る限り、問題はなさそうだ。

「(そうだった、それで、汽車が出る直前にレポート一緒に出しに行ったんだっけ…)」

″出来なかった、では済まされないこともあるのです。覚えておきなさい、ペティグリュー″
マクゴナガルのお叱りの言葉を、何故かよく覚えている。


「みんな、昨日の写真できたわ」

リリーが嬉しそうに席を立って、一人ひとりに渡して回る。手渡された写真は、何度も何度も繰り返し見たもの。

ホグワーツ城をバックに、照れた様子のリリーの肩を組んで、嬉しそうに笑っているジェームズ。その隣で困ったように笑っているリーマスとピーター。ジェームズを小突いているシリウスと、その隣の、

「(私の顔、久々に見たな……)」

先ほど覗いた鏡の中にあった自分と、同じ顔。黒く塗りつぶされてはいない。
この写真の本来の姿を久々に見て、温かい気持ちになる。写真の中の自分は、こんなにも幸せそうな顔をしていたことを忘れていた。

「あ、裏にメッセージ書いてくれたんだ」
「うん。全員に同じメッセージ…お守りになるかなと思って」

リリーは写真の裏に、「ありがとう、これからもよろしく」とメッセージを書き込んでくれていた。この文字も、何度もナマエに力を与えてくれて、未来の現実でセブルスへの証明となり、居場所を与えてくれたものだ。本当に、お守りだった。

「大事にするね」
「ウン、いい写真だな」
「…なんだよ、みんなしんみりして。僕たち明日からも、騎士団で一緒だろ」

気を抜くと、どこからともなくやってくる不安が伝染するのを食い止めるように、ジェームズがわざと不機嫌そうに言う。ジェームズのこの勇敢さとリーダーシップが、ナマエはとても好きだった。

「ナマエ、食べ終わったら、ちょっと校内散歩しようぜ」
「シリウス、ついでに例の抜け穴が封鎖されてないか確認もよろしく。後輩たちが困らないように」
「おうよ」

抜け穴、というのは、ホグズミードに繋がる道のことだ。忍びの地図はフィルチに没収されたしまったが、どうやらその使い方はバレていないらしく、彼等が確立した各所の抜け道は、卒業まで健在だった。

味のしない朝食は正直食べ進める気がしなかったが、これ以上シリウスに心配をかけたくなくて、ナマエは無理矢理喉に流し込んだ。
でも、最後の日に散歩なんてしたっけ、とナマエは記憶を手繰り寄せる。
ピーターのレポートを直前で手伝った覚えはあるが、それ以上は思い出せない。

「(なんだっていっか、)」

ここに居られるのなら、不思議な夢でもなんでもいい。ナマエは考えることをやめて、またシリウスの手を握り返した。



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