アズカバンに、陽の光は一切入らなかった。

冷たい石造りの牢に、冷え切った埃っぽい空気。かろうじて与えられる質素な食事。そして、鉄格子のすぐ向こう側にいる看守−−吸魂鬼。少しでも希望の心を待てば、ひとすくいも残さぬように吸い取られる。
とてもヒトの暮らしとは思えぬ毎日。シリウス・ブラックは、そのまま一生を終えるのだと覚悟をしていた。

しかし、十数年間続けてきた死んだような毎日は、数日前、ある紙切れによって覆った。

「……気が狂わなくてよかった」

周りの独房にいる者たちは、あっけなく自我を失っていった。吸魂鬼はプラスの感情を喰う生き物。しかし、シリウスが持ち合わせているのは、ただただ、どす黒い負の感情だった。
怨み、憎しみ、絶望、そして、悲しみ。

もうすぐ、看守である吸魂鬼が食事を持ってくる時間だ。
シリウスは、首からかけている指輪を骨張った手のひらに乗せた。女性物の華奢なプラチナの指輪。ボロボロの服の裾で、丁寧に磨く。シリウスの日課だった。この汚れた空気に染まらぬよう、毎日、欠かさず。
収監される時に、ダンブルドアが持ち込めるように計らってくれたものだった。他のものは全て捨てるから、この指輪だけは。シリウスのその願いに、事情を知っている彼は、静かに頷いたのだった。

シリウスの時間は、あの雪の日から、止まっている。

あの日、心にぽっかりと空いた穴は決して消えることがなく、しかしその穴のおかげで、彼は彼でいることができた。

自分は無実であるという確信、そして、"彼女"を失った悲しみ、思い出せない自分への絶望。

これらが、アズカバンという地獄の中で、シリウスに正気を与えた感情だった。
永遠にも思える時の中で、シリウスは何度も何度も"彼女"を思い出そうとしたが、かけらも思い浮かべることができない。
もうこのまま死んでもいい、と思う日ばかりであった。生き続けていても、自分にはもう何も残っていない。明日などもう来なければいいのに。彼女の隣でしか息ができない、それくらい自分の全てだったはずなのに、どうしてこんなところでのうのうと生を繋いでいるのだろう。
しかし、数日前に手に入れた新聞の、ひとつの記事。それが、シリウスの考えを一変させた。

「俺は、この時のために生かされていたのかもしれないな…」

ホグワーツに行く。
"アイツ"が生きていて、ハリーの近くにいることを知っているのは、自分だけ。
ここで静かに死を待つわけにはいかない。
この絶望に、この手で終止符を打たなければ。

「…君は、かつての友を殺す俺を、許してくれるだろうか」

指輪を握りしめ、掠れた声を溢す。
顔も声も思い出せない"彼女"が、首を振るのは、縦だろうか横だろうか。

シリウスは目を閉じて、全身に意識を集中させた。ぶわりと身体中を熱が走り、ビリリとした電気のような感覚ののちに、全身が黒い毛で覆われる。極限まで痩せ細った犬の姿は、鉄格子の隙間を縫うことが出来そうだった。

"アイツ"と刺し違えてもいい。
ハリーを守ることが出来るなら。"彼女"もジェームズもリリーも、大事なものを何一つ守ることが出来なかった自分の、最後の足掻き。それが出来れば、もう後悔はない。願ってもいない明日がやってくる絶望を、もう終わらせてしまおう。

「(……ああ、でも)」

最後に少しでもいいから、"彼女"の笑顔を思い出したい。暗いことばかりだった自分の人生の中で、すべてのものを投げ打ってでも、大切にしたいと思ったはずの笑顔。
知らないうちに失ってしまった、一番失くしたくなかったもの。

夢の中でもいいから、せめて、もう一度。
それがシリウス・ブラックの唯一の心残りだった。



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