冷たい水の底にいるようだった。
ぼんやりした感覚の中で、喉だけが少し温かい。
ああ、そうだ、彼の手だ。痩せ細って硬くほとんど骨のような、けれど温かい人間の手が、自分の首を押さえつけている。
自分を見下ろす灰色の瞳に、かつての星のような輝きはない。全てのことに絶望しているような淀んだ悲しみがあるだけ。
(何か、言わなきゃ)
そう思うのに、身体がひとつも動かない。何か、彼に、伝えないと。
(でも、なにを?)
彼はもう、私の隣で笑ってくれていた、あの頃の彼ではないのにーー
「ナマエ……起きて、ナマエ」
瞼の向こうが光っているのがわかった。指先に力をいれると、冷たい布を掴む感触。意思に反して重たい瞼がなかなか開かない。背中に柔らかい感覚、ベッドの上だ。瞼の向こうで、呼んでいるのは、誰だろう。
とても懐かしくて愛しいのに、胸が締め付けられる声。その姿を、見たい。
「ナマエ、起きてったら!」
しゃっ、とカーテンを開ける威勢のいい音に、ナマエは目を開けた。
ぼやける目をこすり、こちらを見下ろす影を捉えて、頭が真っ白になった。
「………リ、リリー?」
「まったく、最後の日まで寝坊すけなの?列車に乗り遅れたら大変…」
「リリー……?」
「……まだ寝ぼけてるの?」
クスリ、と笑った彼女の赤い髪が、はらりと肩から落ちる。エメラルド色のきれいな瞳はおかしそうに細められ、色の白い柔らかな指先が、ナマエのほっぺたをつねった。
痛くない。
身体に麻酔を打ったかのように、感覚が偽物みたいにぼんやりとしていた。
「ほら、起きてるでしょう?」
「………うん」
ナマエはベッドサイドに置いてあった手鏡を手に取る。そこに映っているのは幾分か若い自分の顔だった。まさか漫画みたいに頬をつねって夢だとわかるだなんて。
一瞬、あの雪の日のように、学生時代に時間が戻り、すべてをやり直せるのかと思ったけれど、そんな都合のいいことがあるはずもなかった。
夜の闇横丁で目が覚めた時は、確かに体が痛かったし、″そう″だという確信があった。
これは、ただの、夢。
ただの、どうしようもなく、幸せな夢だ。
「…昨日もあんなに泣いたのに、今日もやっぱり寂しいね」
ナマエはベッドから立ち上がると、そう言って眉を下げる彼女をぎゅっと抱きしめた。匂いはしないし感覚もないけれど、記憶にある彼女の柔らかさを思い出す。夢でも、またこうやって、会えるとは思わなかった。笑っている彼女に会えるなんて。
「もう、そんな顔しないで。まだ列車が出るまで時間があるわ。朝食も食べなきゃ」
そう言ったリリーの目にも薄い涙の膜が張っている。
さ、着替えて、と背中を押されて、ナマエは周りを見回した。懐かしいグリフィンドールの寮。もう随分記憶の片隅だと思っていたけど、細かいところまで思い出すことができる。それにしても、こんなにも狭かっただろうか。
実家のクローゼットに大切にしまったはずのローブに袖を通す。紅色のネクタイの結び方は、指先が覚えていた。
リリーのベッドサイドに置かれた日刊預言者新聞を見ると、卒業式の次の日だった。
「(みんなにも、会えるのかも…)」
そう考えて、心臓の動きが早まった。夢でも、あの頃の大切な人たちに会えるのは純粋に嬉しい。夢でいいから会いたいと、何度思ったことだろうか。
談話室への階段を降りながら、大きく息を吸ったけれど、古臭くて少し埃っぽいあの独特なにおいは感じない。
本当に寝坊をしたようで、談話室には暖炉前のソファに座る一人の姿しかなかった。
バイク雑誌を読んでいた青年が、ナマエに気が付いてぱっと顔を上げた。
「なんだ、また泣いてたのか、ナマエ」
シリウス・ブラックだった。
少し目にかかった艶のある黒髪。整った顔立ちは健康な頬の色をしていて、からかうような声色に反して、灰色の瞳が愛しそうに細められる。
その瞳と目が合った瞬間、ナマエは心臓が止まったのだと感じた。様々な感情がせり上がってきて、喉の奥が熱くなる。肺も喉も震えて、か細い息を吐くことがやっとだった。
夢でも会えたら、と何度も何度も思っていて、やっと叶ったのに。言いたいことがたくさんあるのに、ひとつも言葉を作ることができない。体の中は熱くて、こみ上げるもので頭はぐらぐらとしているのに、指先は氷のように冷えていった。
「(…ああ、とっくに限界だったんだ)」
あの雪の日から、起こったすべてのことを冷静に飲み込んで対処してきたのだと思っていた。すべての元凶は、ヴォルデモートに狙われた自分にあって、その結果訪れた未来もすべて自分に起因するものだと。
自分の存在が世界から消えていても、大事な友人に忘れられていても、愛する人に喉を絞められてナイフを向けられても。
すべてが自分が起こしたことの代償で、だからといって決して後悔はしないのだと、自分自身に言い聞かせてきた。考えてはだめだと、何度も何度も繰り返しその言葉に蓋をしてきた。
ただ、シリウスに、みんなに、笑って生きていて欲しかっただけなのに。
それなのに。
「…ナマエ?」
過去のナマエだったら、「泣いてないよ」とむくれて笑うところだったのだろう。階段の途中で立ち止まって顔を伏せた彼女に、不審そうにシリウスが駆け寄る。
「大丈夫か?」
本当に心配そうな優しい声に、ぎゅっと胸が詰まって、ナマエはシリウスに抱き着いた。丁度彼の胸のあたりに顔をうずめると、たしかに心臓の音がした。
びくりと驚いたシリウスだが、そうすることが当たり前のようにナマエの頭をゆっくりと撫でた。
「ナマエ、大丈夫だよ」
目の奥が熱くなる。泣いていることは気付かれたくなくて、必死に唇を噛みしめるが、震えが肩まで伝染する。シリウスがもう片方の腕で肩を抱いてくれる。
大丈夫、と優しく繰り返す低い声は、ナマエがずっと待っていた声。
骨ばった大きな手も、すっぽりと包んでくれる逞しい体も、ずっとずっと触れたいと願っていた。
星を集めたような瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていてくれる。
夢でもいい。ここがいい。
「…シリウス」
「ん、どうした、ナマエ」
「わたし…ずっとここに居たい…もうどこにも行きたくない」
現実ではもう二度と、彼が名前を呼んでくれることはないのだから。
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