きっと校内には残っていない。そう踏んだナマエは、禁じられた森に来ていた。普通であればここには近付かないが、動物もどきで犬の姿になれるシリウスであれば、森の中は身を隠すにはもってこいの場所だと思ったのだ。ナマエは杖先に灯りを灯し、湿った草を掻き分けた。どうか、ハグリッドが危険な生物を隠していませんように、そう願いながら。
森の中はずっと絶えず何かの気配がしていて、ナマエは最低限の灯りで息を潜めて進まなければならなかった。昨日の雨で湿った草木のせいで、ローブの裾が汚れていく。なるべく音を立てないよう、足元には細心の注意を払う。この森には、人間を嫌う生物がたくさん巣食っているのだ。
自分も動物もどきになればよかった、とナマエは考えていた。ジェームズたちがそうなったと知ったのは6年生の終わり頃。狼になってしまっている間も、動物ならば一緒にいれるからと、こっそりと三人で習得したらしい。仲間外れにされたような気がして不愉快ではあったが、同時に彼等の絆が深まっていく様が見えて嬉しくもあった。それなのに、あのリーマスの憎しみの表情。思い出すと、どうしようもなく悲しくなり、ナマエは拳を握った。その時、がさり、すぐ後ろで茂みが音を立てる。ナマエは慌てて振り返り、杖を向けた。
人影だ、と思った瞬間に、辺りの温度が急激に下がった。感情が一瞬で枯れ切るような絶望感。人間ではない、吸魂鬼だ。
その可能性を考慮していなかった自分を恨んだ。リーマスの言葉に相当なショックを受けていたナマエは、咄嗟に幸福な思い出を浮かべることができなかった。吸魂鬼はずいっとナマエに近寄った。初めてフードの下を見た。目があるはずのところにある大きな口が、目の前に迫る。まずい、と思いつつ、四肢の力が抜け、視界がぐらりと揺らぎ点滅する。
代わりに目の前に広がったのは、地面に転がり、少しずつ雪が積もって行く、愛しい人たちの死体だった。
「だめ……みんな……しなないで…」
いやだ。いやだ、いやだ、いやだ。
置いていかないで。
意識を繋ぎ止めたのは、大きな唸り声だった。
まさに命を吸い取ろうとしていた吸魂鬼を横に薙ぎ倒したのは、草むらから飛び出した大きな影だった。ナマエは地面に座り込み、目を凝らした。地面に倒れこんだ黒いマントの亡霊と、その上から押さえつけるように牙を向いている、熊のような大きな黒い犬だった。
ナマエはその犬を、知っていた。
吸魂鬼は唸り声をあげる犬の下で、細い腕を動かしていた。周りの草木が色を失う。ナマエはなんとか気を奮い立たし、杖を握る。
「エクスペクト…パトローナム!」
杖先から、もう一体の大きな犬が現れる。光をまとった白い犬が迫ると、うごめいていた吸魂鬼は押し出されるように空へと舞い上がって姿を消した。役目を終えた守護霊はいちどナマエの周りを回り、寄り添うように背中に鼻先を押し付けて、ふわりと消えた。
「待って!」
黒犬は闇夜に紛れようとしていた。ナマエは慌てて声をあげるが、こちらを振り向くことはしない。
だめだ、行ってしまう。
また、置いていかれてしまう。
「待って!シリウス!!!」
ぴたりと犬の足が止まり、振り向いた彼は牙を見せた。低い唸り声に、ナマエは思わず身をすくめる。向けられる、明らかな敵意。しかし、なんとか足に力を入れて、一歩彼に近付く。シリウスの耳がぴくりと動く。もう一歩、近づいたところで、その大きな身体がこちらに向かって飛び上がった。
「……うぅっ」
どしゃっと泥の上に押し付けられて、ナマエは目を瞑った。ぐっと伸し掛る重みにうめき声が漏れる。声を上げようとすると、がしりと喉を捉えられ、冷たいものが喉に触れた。
恐る恐る目を開けると、そこには、人間の姿をとった、シリウス・ブラックがいた。
「………なぜ、わかった」
「………っ」
喉に添えられた冷たいものは、ナイフだった。
しかし、それよりも鋭い瞳がナマエを突き刺す。骸骨のようにやせ細った顔に、落ち窪んだギラギラとした目。久しぶりに声を発したのか、音を忘れてしまったようなガラガラの声。かつてのハンサムだった彼の面影はどこにもない。しかし、紛れも無い、シリウス・ブラックだった。
彼は、いま、たしかに、生きている。
「君はここの教師だろう。悪いが俺は、まだ捕まるわけにはいかないんだ…」
「……まって、」
馬乗りになった状態で首を捉えたまま、シリウスはナイフを下ろし、代わりにナマエの弱り切った指先から杖を奪おうと手を伸ばす。その拍子に、彼の服の間からネックレスがしゃらりと降りた。鎖に銀色の指輪が通された、シンプルなものだ。シリウスの容貌に似合わず、とても綺麗に磨かれたそれは、少し違和感がある。シリウスはそれを一瞥し、少し動揺をみせたが、すぐに杖を手に取った。
「ここで俺を見たことは、忘れるんだ」
「………っ」
「記憶を消させてもらう」
ぴたり、杖が額に当てられる。
ぎらりと光った目に睨まれても、ナマエはまったく恐怖を感じていなかった。ただただ、シリウスの手が温かいことだけを感じていた。あの日、あの雪の中で、届かなかった手。懸命に伸ばしてくれたのに、それを取ることができず、無残にも目の前でヴォルデモートの道具と成り果ててしまった彼が、確かに目の前で生きている。暖かい手のひらが、自分に触れている。そのことがただ嬉しく、同時に悲しかった。
なぜ、こんなにも愛しい人の近くにいてあげられなかったのだろう。こんな果てた姿になるのを、止めてあげられなかったのだろう。なぜ、側にいて彼を守ってあげられなかったのだろう。
どうして、彼を置いて、消えたりしてしまったのだろう。
「……シリ、ウス」
「……っ」
「ごめん……ごめん、ね…」
シリウスの瞳は一見狂気じみているように見えたが、浮かんでいたのは悲しみだった。ナマエにはそれがたまらなく辛かった。彼のこんな顔は、見たくなかった。彼が人殺しなのかどうなのか、そんなことなどどうでもいい。ただ、愛した彼が幸せではないことが、悲しい。
「ごめんね…わたし、あなたを、」
"俺も、お前といれて、すげえ幸せだよ"
そう言って笑ってくれた彼はもういない。
その言葉をもらう資格はもう自分にはない。
「しあわせに、して…あげられなかっ…た……」
視界が歪んだ。溢れ出る涙に比例するように、意識がどんどんと霞んでいく。自分が何を言っているか分からなくなりながらも、ナマエはただ、ごめんなさいと呟き続けた。シリウスが口元を動かしたが、ナマエの耳には届かない。
やがて、意識がぷつりと途切れた。
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