「あのね…家族が増えるの」
今日はナマエにとって地味に散々な日だった。
まず、時計が壊れた。
学生時代からよく時計を壊すナマエのために、シリウスがプレゼントしてくれた、マグル式の腕時計。魔法の時計が壊れるはずがない、と彼には昔から散々馬鹿にされたが、壊れてしまうものは仕方がない。
最終的にシリウスが用意してくれたのは短針と長針が、数字の間をいったりきたりする代物。魔法を使わずに歯車の動きで時間を刻んでいるのだという。
さすがに壊れないだろうと思っていたが、今朝急に針が動かなくなってしまった。
それから、時計が壊れたことが原因で、シリウスと喧嘩をした。何を言い合ったか覚えていない、そんな喧嘩だけど、すこぶる機嫌が悪くなった。
部屋に引きこもって、暖炉越しにリーマス相手にぶつぶつと愚痴っていたのに、異様なテンションのジェームズに無理やり呼び出された。
そして、彼らのところへ行く途中で凍った地面に滑って尻餅をつくわ、それをリーマスに笑われるわ、着いたらそこにはシリウスも居て、彼らしからぬ不細工な顔で睨まれるわ。
正直、ナマエは今日は人生で指折りの最悪な日に入る部類の一日だと思っていた。そんな気分だった。
リリーが優しい声で囁いて、このうえない幸福で美しい微笑みを浮かべる、その瞬間までは。
「え?」
「子供がね、できたの」
ナマエはすぐには返答できなくて、じっとリリーのエメラルドの瞳を見つめた。そしてゆっくりと、その後ろで彼女の肩に腕を回しているジェームズに視線を移す。
とても優しい顔だった。学生時代にやんちゃしていたとは思えないほど、穏やかで、落ち着いていて、心の底から嬉しそうな顔。
「…ほんと、に?」
リリーがそっと、滑らかな春風に靡く花のように、頷いた。
「…っ!」
心臓の底から、指先まで、温かい熱が走る。それが幸せの痺れだと理解するのに、脳を動かす必要はなかった。
じんじんと、胸が震える。駆け出して、彼女に飛びついて抱きしめたい衝動に駆られるが、彼女の体のことを考えて踏みとどまる。
ナマエはゆっくりとリリーに近づくと、その細い肩をぎゅっと抱きしめた。気のせいだろうか、いつもより少し、いやだいぶ、あたたかい。
「おめでとう、ほんとにおめでとう、」
「ありがとう…ねえ、ちょっとナマエ、泣かないでよもう」
「だって、」
ナマエは、リリーがずっと子供を望んでいたことを知っていた。ジェームズと新しい家族を築くことを、おそらくジェームズよりも望んでいた。
そして今目の前に、待ち望んだ命がある。彼女の幸せを思うと、胸がぎゅっと苦しくなった。
ナマエは流れてくる涙を彼女の肩に染みこませて、もう一度、おめでとう、と呟いた。
「ちょっと、君たちもおめでとうって言ったらどうなんだよ」
ジェームズが、部屋の隅で固まっていた男二人に冷たい視線を投げる。
どうやら彼らは混乱していたようで、鋭いその言葉で我に返ったようにお互い顔を見合わせ、それからぴったり二人同時にリリーを見た。
その様子がおかしくてリリーが笑みを溢せば、それが合図だったかのようにシリウスがうおおお、と犬のように大きな声を出した。
「パーティだ!今日は盛大にパーティだ!!」
「そうこなくっちゃ!」
「…ジェームズは、お父さんになるんだから、もう少し落ち着かないとね…」
「ほんと、そのとおりね」
静かな夜に、笑いがこぼれる、穏やかな時だった。
リリーの肩から顔を上げれば、ジェームズの背中をばしばしと叩くシリウスと目があった。
彼は、一瞬きょとんとすると、恥ずかしそうに苦笑したのだった。
ジェームズとシリウスを中心とする大騒ぎは、それから数時間も続いた。
ピーターも途中から来るということだったのだが、結局現れたのは、暖炉の中から首だけだった。
いつものメンバーではなかったけれど、いつもどおりの大騒ぎ。しかしいつもと違ったのは、ジェームズがやたらとリリーのことを心配していたこと。
シリウスがシャンパンを開けようとすれば、お酒は体に悪いから駄目だと怒り、チップスも油っぽいから駄目だと断固言い張り、彼らのやりとりでリリーが爆笑すると、真っ青な顔で彼女のお腹を擦っていた。
クィディッチでも無敵、成績優秀、悪戯は最強。ホグワーツで誰も敵わなかった首席の彼が、こんなにも狼狽えている。ナマエはその行動ひとつひとつに笑いを抑えるのが必死だった。
「ああ!リリー、大丈夫だよ、僕が片付けるから!!」
お皿を何枚か重ねて席を立った彼女に、彼が慌てて駆け寄ってその手から奪う。それを律儀に魔法も使わずに台所まで運んでいく。
そんな甲斐甲斐しいジェームズの後姿を見て、「いい機会ね」とリリーは悪戯っぽく笑ったのだった。
「…あ、雪」
食事を終えゆったりとした空気にみんなが微睡んでいる中、ナマエの溢した一言に全員が顔を上げた。
彼女の視線は、カーテンの合間から見える夜の空。ちらちらと、粉雪が黒々とした闇を塗り替えようとしていた。いつのまに降っていたのか、地面にもうっすらと雪が積もっている。
空を舞う細かい光が増すごとに、ユイナの瞳の輝きも増していく。
「ちょっと外出てくるね!」
「あ、おい、ちょ…ユイナ!」
シリウスの静止も聞かずに、ナマエは手近においてあったマフラーを引っつかんで外へ飛び出していった。
彼が伸ばした手は呆気なく空を掴んで、そのまま空しくおろされる。
「……マフラー持っていって、コート着ないってどんだけだよ…」
「ほんと、ナマエったら雪が降ると子供に戻るんだから」
「まったく、いつまで経っても子供だなあ」
「あなたに言われたくないわね」
「……」
「でも、ああやって笑ってるときが、一番ナマエらしいよね」
リーマスが、開いたカーテンの間から、空を見上げているナマエを眺めて微笑んだ。好きなものを好きだと真っ直ぐに言う彼女は、いつだって眩しい。
「僕も、雪は好きだな」
彼女がリーマスに気づいて、大きく手を振る。まるで、自分の存在を一生懸命伝えているように。ナマエはいつもそうだった。犬の尻尾のように、ちぎれんばかりに手を振るのだ。それを見ると、すぐに駆け寄りたくなる。
シリウスが大きくため息をついて、壁に掛けてあったコートを羽織ると、彼女のコートも腕に抱いた。
その後ろから、ジェームズのからかうような声が飛ぶ。
「なーに、シリウスくん。喧嘩してたんじゃなかったっけ?」
「あ?……あー、そういや」
「いつものことだろ。もうナマエだって忘れてるよ…ああでも、あんま喧嘩しないで欲しいな」
君達の愚痴って、結局僕には惚気にしか聞こえないんだよね。
シリウスは一瞬顔を赤らめると、ごほんと咳払いをして今度は紺色のマフラーを首に巻いた。
「…努力する」
「そうしてくれると嬉しいよ」
くすり、と笑ったリーマスの声を背中で聞きながら、シリウスは彼女を迎えに行くために、ドアノブに手を掛けた。
その瞬間、
「……!」
「どうかした、シリウス?静電気?」
「い、いや…」
ドアノブが思いの外冷たかったからなのか、それともドア越しに外の冷気を感じたのか、背中にぞぞぞ、と得体の知れない鳥肌が立つ。
息が止まりそうな恐ろしさだった。
心の底に穴が開いて魂がぜんぶ零れ落ちたように、全身が空っぽになった心地がした。
どう言い表していいのか分からない恐怖。ただ、そのまま呼吸が止まりそうなほどに胸が締め付けれられた。
このドアをあけてはいけない、そう思う。
「……大丈夫?」
心配そうにリリーが声を掛けたが、シリウスは首を振って、息を吸い込んで、大丈夫だよ、と笑ってみせた。
ぎゅっと、ドアノブを握る手に力を入れる。その手のひらは少し湿っていた。
こんなことしてたら、ナマエが風邪ひいちまう。
シリウスはもう一度、友人達に気づかれないように息を吸い込むと、ドアノブをゆっくりと回した。
ぎぃ、と木が軋む音がして、一面にふわふわと揺れる雪が広がる。溢れ出す冷気を暖めるように、真っ暗な闇の中で、明かりのように光る雪。
勢いはいつのまにか増していて、雨のように世界を塗りつぶそうとしている。
その真ん中で、小さな女がぽつり、と立っていた。
声をかけたかったのに、シリウスにはそれが適わなかった。ただ、遠いな、と思った。もっと家の近くに居るものだと思っていたのに、彼女は意外にも遠くまで足を運んでいた。
「……ナマエ」
本当にほんとうに小さく呟いた言葉は、雪の静かで荒っぽい音に掻き消されてしまったのだろうか、彼女には届かない。
セーターの上にマフラーを巻いただけの彼女は、雪に彩られていつもよりもひどく儚く見えて、もしかしたら雪にこのまま埋もれてしまうんじゃないかと思えて、
なんだかひどく、恐ろしかった。
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