「………冗談ですよね」
手渡された新聞の一面から目を逸らし、縋るようにダンブルドアを見るが、彼は静かに首を横に振るだけだった。
新聞に大きく掲載されている写真の中から、こちらを見つめ返す男がいた。もつれて乱れた髪に、痩せこけた頬。ぼろぼろの服から覗く、随分と痩せた腕、首筋。どこも薄汚れているのに、首からぶら下げているシルバーの指輪だけが何故かしっかりと磨かれていた。世界中の絶望を掻き集めたような容姿をしているのに、瞳だけは強く光を帯びている。ナマエはこの目を知っていた。誰よりも知っているつもりだった。灰色の中にきらきらと星が輝いているみたいで、とても大好きだった瞳。
「シリウス…」
愛した人の名前、その下に続く文章に、目の前が真っ暗になる。
「例のあの人」の手下だったシリウス・ブラックは、一人の魔法使いに追い詰められ、それから逃れるために、魔法使いを含め13人もの人間を殺した。
その後投獄されたが、つい先日アズカバンから脱獄し、今も逃亡を続けている。
新聞の中にはシリウスを批判し貶す言葉が並んでいたが、つまり事実らしきことだけを抜き出すとそういうことであった。
「ブラックは、ヴォルデモートを倒したハリーの命を狙って脱獄したという話じゃ」
「…………」
「君はもう知っておろうが、魔法省の要請で、吸魂鬼を受け入れることになっておる。彼から生徒を、守るためにと」
ナマエは何も言えなかった。ただじっと、新聞の中のシリウスを見つめた。自分の記憶の中にある姿からは程遠い、でも自分を見つめ返すその目は、変わらない。
俺も、お前といれて、すげえ幸せだよ
柔らかなシリウスの声が頭の中で響く。
あんなに友人たちを心から愛して、闇の魔術を憎み、自分の家族に悩み苦しんで、自分で自分をたくさん傷つけて、それでも純粋な幸せを望んでいた心優しい彼。
「………君は、シリウスの大切な人だったのだろう」
「………え」
「君が消えた時、彼はもう立ち直れないのではないかというほどに嘆いていた。愛していたのに、何故思い出せないのかと、ずっと」
「………っ」
「わしは、今でもよくわからないのじゃ」
ダンブルドアの目は、悲しげに伏せられている。スネイプはドアに凭れ、ただじっと口を閉じている。重たい空気に、ダンブルドアの吐き出した息が溶け込んだ。
「わしは、シリウスを信用しておった。皆がそうだった。彼の産まれを知った上で、皆が彼のことを心から愛しておった」
「……わかって、ます」
「彼が、こんなことになるなんて、誰も夢にも思わんかった」
暗い目で、ダンブルドアは新聞の彼を一瞥する。ナマエはこの事態を到底飲み込めないと思った。ただ、忘れてしまった後も、自分のことで泣いてくれたシリウスのことを思うと胸がどうしようもなく痛み、新聞の中の彼と目が合うと、呼吸を失ってしまいそうだった。
「シリウスは、認めたんですか?」
「いいや」
「じゃあ……誰も、シリウスを助けてはくれなかったんですか?」
「………」
「先生も、誰も、シリウスを信じては、くれなかったんですか?」
責めるような口調はお門違いだとは分かっていた。それでも止まりそうな呼吸を繋ぎとめて言葉を吐き出す。ミョウジ、とスネイプの咎める声も振り切って、ナマエはダンブルドアに一歩詰め寄った。
「わからないんじゃよ、未だに。あの時の真実が、わしにも到底想像がつかぬ。誰もがシリウスが犯人だと頷くしかなかったのじゃ」
「…っ、それでも、どんなことがあったって、絶対にシリウスは人を殺したり、よりによって闇側についたりしません…!」
「……君も、彼を心から愛していたんじゃのう」
「当たり前です…!私、わたしは…」
喉が詰まった。頭の中が絡まって、うまく解けない。ただひとつ、シリウスがそんなことをするはずがないという自信だけが、絡まることなく存在している。たぶんこれは、どんな事実を知ったとして、揺るがない自信だと思った。ナマエが心から愛し幸せを願った人間なのだ。信じないことなんて出来ない。
ナマエの強い瞳を見て、ダンブルドアは曖昧に微笑んだ。
「君なら、君がもし彼のそばに居たとしたら…そうしたら、シリウスは救われていのかもしれんのう」
ナマエは言葉を失った。
その「もしも」は、けっしてナマエが考えてはならないことであった。失った14年を、思うことなど許されない。ダンブルドアがはっとして、小さく「すまない」と謝った。その時はじめてナマエには、14年前と変わらないように見えるダンブルドアが、いくらか歳をとったように見えた。
「失礼。校長先生、組分けのお時間で…あら、セブルス。ドアに凭れて何をしてるんです?」
重たい空気を割くように、マクゴナガルが顔を覗かせた。ナマエの記憶より歳をとってはいるが、きっちりとした見なりと美しい姿勢は変わらない。彼女はナマエを見つけると、ゆっくりと瞬きをした。
「悪いのう、ミネルバ。すぐに行く」
「ええ…」
「ナマエ、重たい話をこんなタイミングでしてしまって悪かった。じゃが、生徒の前に出る前に、君自身に覚悟をしておいてほしかったんじゃよ」
「覚悟…」
知らなければならないことが多すぎる、とスネイプは言った。その通りだった。ひとつひとつ飲み込むのにこんなに痛みを伴っていては、ハリーのことを守るなんて、とてもじゃない。
「君は今から、ホグワーツの先生じゃ。どんな時でも生徒の安全を一番に行動してくれると、約束しておくれ」
「もちろんです」
「たとえ、万が一"彼"と対峙することになったとしても…」
「……っ」
「彼を傷つけることになったとしても、生徒を守ってくれると、誓ってくれ」
ダンブルドアの真剣な瞳に、ナマエはごくりと喉を鳴らした。
もし、もしもシリウスが本当にハリーを殺そうとしたらーー
「……そんなことには、絶対になりませんよ」
ナマエは新聞を折りたたんで、机の上に置いた。自分に言い聞かせているようでもあったその言葉を、ナマエは何度も頭の中で響かせた。
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