リーマス・ルーピンは、両手で抱えていた本の山をトランクの横にどさりと置くと、鳶色の髪をかきあげて長いため息をついた。
額にじんわりと滲む汗を乱雑に拭う。魔法で室内の温度が適度に保たれているとはいえ、動かした体に夏の暑さは容赦しない。

「…これで、一段落か……」

黄緑色の古びたソファに背を預けて、ずるずると床に座り込むと、リーマスはもう一度ゆっくりと息を吐いた。
部屋は随分とさっぱりとしていた。必要なものは全てトランクに詰め込まれ、残された家具が新品のように佇んでいる。
住居への思い入れはとくになかったはずだったが、生活感のなくなった部屋を見ると、突然哀愁のような気持ちが湧き上がってくるのが不思議だった。
リーマスが机の方へ杖を一振りすると、花のような香りが立ち上る紅茶が空中をすべり、彼の右手にすっぽりと納まった。
それをゆっくりと喉に流し込めば、甘さが指先まで浸透して、緊張した心をほぐしてくれる。

足元に目をやれば、トランクはもういっぱいだった。魔法を使わなければ、残りの本が入る余裕なんてない。考えれば分かることなのに、ひたすら荷物を無理に詰め込んでいた自分を、リーマスはちいさく笑い飛ばした。

「余裕がないのはトランクじゃなくて、わたしのようだな…」

目を閉じれば、こちらに向かって吼える男の顔が、鮮明に頭に浮かぶ。
先日その新聞を手にした時、何時間もその顔に釘付けになっていたような気がする。
頭の中が真っ白になって、それから体中が震えて、渦巻いた黒い何かが、まるで月の光ように自分を侵食していくのがわかった。

「(シリウス……)」

ゆっくりと目を開いたとき、目の前の壁に飾ってある写真の中の人物と目が合った。
彼等は、この上ない笑顔で大きく手を振っている。リーマスは起き上がると、その写真をそっと壁から外した。

赤い髪の美しい女性の肩に手を回して、嬉しそうに笑っているくしゃくしゃの黒髪が特徴の眼鏡の男。
その隣で困ったように笑っている自分と背の低い男。黒髪の男の後ろで、彼を小突いているハンサムな男。

そして、

一生懸命こちらに手を振っている、ひとつの、影。


リーマスはゆっくりと、その影の輪郭をなぞった。
“彼女”は、おそらく自分達と同じように笑っているのだろう。その姿を、纏わりつくように覆っている黒い影が、ゆらゆらと煙のように小刻みに揺れる。
形からして人間であることは判別ができるが、顔はまったく見えない。自分自身の記憶によって、それが女であることが分かる。ただ、それだけの物体。

とても気味の悪い写真である。

しかしリーマスには、それを捨てることが出来なかった。
もちろん大切な友人達との幸せな時間の証明であると共に、それは“彼女”が存在した証明でもあるのだ。
自分の記憶にはもう残っていないその存在を、無理やり自分の脳に叩き込ませる証拠。


決して、捨てることはできない。


その写真もトランクに入れようとしたとき、呼び鈴の音が響く。
リーマスはちらりと時計を見た後、急いでドアを開けた。夏の熱気が、鼻先を掠める。

「こんにちは、ダンブルドア」
「こんにちは。ご機嫌いかがかね、リーマス」

愛想よく笑う、長く白に輝く髭を蓄えた老人を、リーマスはすぐに部屋に招きいれた。
ぱたん、とドアを閉めれば、空気がぴたりと遮断される。そういえば、ここに客人が来たのは随分久しぶりだった。
ダンブルドアはゆっくりと部屋を見回して、満足そうに頷いた。残されたソファに腰掛け、差し出された紅茶を啜って、嬉しそうに微笑む。

「素朴で、とても落ち着く、素敵な家じゃ」
「すみません、何もなくて」
「いやいや、もう荷造りは殆ど済んでおるようじゃのう…魔法は使わないのかね?」

彼が見つめているのが、自分が己の腕で無理やり詰め込んだトランクだと気がついたとき、リーマスは自分が学生に戻ったように感じ、ひどく恥ずかしく思った。

「何かしていないと、落ち着かなくて。魔法ではすぐに終わってしまいますから」
「それもそうじゃの。そういう時間も、結構なものじゃ」

ダンブルドアはそう言うと、積み上げられた本の上に置いてあった、先程の写真を手に取った。
そして一瞬悲しそうに眉を顰めると、先程リーマスがしたように、その黒い影にそっと触れた。

「…“彼女”のことを思い出したかね?」
「いえ……まだ」
「わしもじゃ」

ゆらゆら靡く影をなぞる。老人のとても沈んだ表情とは裏腹に、その影を囲む人々はとても嬉しそうだ。
ダンブルドアはそれをじっと見つめたあと、その写真をとても優しい手つきでそっと本の上に乗せた。

「……さて、用件なんじゃが、」

老人の、歳をとった、しかしどこか透き通った張りのある声で、リーマスはびくりと背筋を伸ばした。
写真の中に吸い込まれそうになっていた意識を、なんとか呼び戻す。黒い影を見えないことになんてしたくなかったが、今は少し目を逸らした。

「シリウスの件は、君ももう知っておることと思うが」
「……はい。おとつい、魔法省が来ました」
「それで、君に伝えておかねばならん噂があってのう」
「うわさ…?」

リーマスは、ゆっくりと視線を眼鏡の奥の鋭い瞳に向けた。自分の髭を無意識に撫でているダンブルドアは、しばらく宙を見つめたあと、その手をとめた。


「シリウスが脱獄して向かった先は、ホグワーツだという噂じゃ」


言葉が出てこなかった。
ただでさえ、彼の話というだけで脳が停止してしまいそうなのに、心臓をハンマーで叩かれたような気分だった。
それでもなんとか搾り出したものは、自分の声にしてはお粗末すぎるものだった。

「それ、は…つまりどういう…?」
「ハリーを狙っている、というのが魔法省の見解になっておる」
「………っ」

一番最初に思ったことは、まさか、だった。
そして次に、そんなことを思った自分に嫌気が差した。あの日、全てを失った日に、彼を見限ったつもりだったのに。
まだ頭の片隅に、あの写真のように快活に笑うシリウスの笑顔が居座っているのだ。
ゆるゆると首を横に振ってうなだれるリーマスの肩に、そっと骨ばった手が置かれる。

「わしはなんとも言えぬ。何が真実なのか――まだわしは模索している途中じゃ。“彼女”のように、な」
「…世間が見逃していることがある、と?」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれぬ。“彼女”の事のように、誰も真実にたどり着けないこともあるのじゃ」
「それでも……わたしは、あいつが、許せません」

色々なことが頭をよぎったけれど、リーマスがなんとか導き出した答えはそれであった。

「君がそう思うなら、それでもよい」

ダンブルドアはゆっくりと頷き、壁の染みでも探すかのように、部屋を見回したあと、リーマスの目を見つめた。

「だが、君はこれからホグワーツの教師じゃ。万が一ホグワーツで何が起こっても、君には生徒の安全を一番に考えて欲しい」
「もちろんです。それが教師の仕事ですから」
「さすがじゃ。それから、きっとハリーは君のことをとても気に入ると思うのじゃが、」
「そう、でしょうか…?」
「わしはそう思っとるよ。もしものとき、ハリーを助けてやってくれるか?」
「…彼の幸せが、わたしの幸せでもありますから」

それこそ、勿論だった。
愛する友人達が残した子供。あの日から会ってはいないけれど、もしあの子が過酷な運命の中になければ、自分の手で守りたかった。
どんなふうに育っているのだろう。性格は父親似か、母親似か。どんな声で笑うのだろう。どんな友達が居るのだろう。何が得意で、何が苦手なのだろう。
そんな事を考えるだけで、不安に歪む心の一方、少し楽しみにしている自分がいる。

リーマスの返答に満足したらしいダンブルドアは、何度も頷くと、壁にかけられたままだった時計を見て、ふむ、と呟いた。

「もう帰らなければいけないようじゃの」
「ありがとうございました、ダンブルドア」
「こちらこそ。素敵な紅茶をありがとう。では、新学期に」

そしてダンブルドアは、他人の家で姿くらましをしない、というマナーをきちんと守り、やってきたときと同様に部屋の中へ夏の匂いを招き入れて出て行った。
彼が消えていったドアをしばらく見つめたあと、リーマスはどかり、とソファーに身を投げた。


「……はあ」

頭の中がぐるぐる回る。混乱して、つぶれてしまいそうだった。
しっかり強くあれない心が、弱くすぐに曲がる自分の意思が、とてつもなく恨めしい。
リーマスは視界の端に写真を捉えて、じっとその揺れる影を見つめた。


なあ、君ならどうするんだろうか。


顔も性格も声も、なにもかも思い出せない、彼女。世間から忘れ去られ、真実を消された彼女。
まるで、世界そのものに忘却術がかけられたかのよう。今の世界は、彼女がいたフィルムだけ切り取られて除かれた映画だ。
残されたのは、ちぐはぐな切れ目、ただ存在の証明だけ。そこに、自分達の隣に、ずっと居たという証明だけ。

それでも君が、わたしたちを愛してくれていたのだけは、覚えている。

君なら、こんなわたしを見て、なんていうのだろう。



「……雪が降ればいいのに」

見上げた小さな天窓から、眩しいくらいの太陽が照らしつけてくる。

そんな空に向かってリーマスがぽつりと呟いた言葉は、夏の熱気が空気に溶け込むように、うっすらとその輪郭を溶かしていった。




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