その事実を知った時、なんて自分の存在は無意味だったのだろうと、思った。


ダイアゴン横丁に姿現しをして、最初に驚いたのは人の多さだった。こんなに賑やかな横丁を、ナマエは知らない。どの店もあいているし、行き交う人々はみんな笑顔だ。しばらく呆然としてから、人々の視線がやけに自分に向けられていることに気づいた。

「あー…どーりで」

セーターなんて着ているんだから、暑いわけだ。
とりあえず、洋装店に行って服を買うことに決め、ナマエは路地を曲がった。

それからは、自分の存在が消えているという事実を否応なしに受け入れるしかなかった。
馴染みのある店の誰もナマエのことを覚えておらず、記憶力に長けているオリバンダーでさえ首を傾げるだけだった。
仕方がないとわかっていても、心が折れる。
とにかくこの時代の情報を仕入れようと、ナマエはフローリシュ・アンド・ブロッツ書店を目指した。


「何をお探しで?」

見覚えのある店主が顔をのぞかせた。
ナマエは思わず凝視していた、怪物的な怪物の本から顔をあげ、にこりと人当たりのいい笑みを浮かべた。
自分の記憶のことは諦め、スネイプの言っていたことを確かめることにしていた。ヴォルデモートが消えた、その理由をまだ聞いていない。

「あの…ヴォル……例のあの人について書かれている本はありますか?」

店主の顔が不審そうにゆがむ。聞き方が悪かった、とナマエは慌てて訂正した。

「いえ、あの人の本というか…あの人が失脚した時のことを知りたいんです」

そういうと、店主の顔色がぱっと明るくなった。梯子を引っ張ってきながら、笑顔を浮かべる。

「ああ、ハリー・ポッターについての本ですね」
「ハリー…ポッター?」
「例のあの人を打ち破った赤ん坊ですよ。今はもう立派な少年でしょうが」
「ポッター…?」
「まさか!知らないとでも!?」

そんなことがあるはずがない、とでも言いたげな目に、ナマエは居心地の悪さを覚えた。こんなことならスネイプに聞いておけばよかったと思う。どちらにしろ、自分の目で確かめないと気が済まないので同じことだったかもしれないが。

「ああ、これなんかいいんじゃないですかね」

渡されたのは、「生き残った男の子 ハリー・ポッター」というタイトルの本。生き残った、というのがひっかかった。まるで他の人は全部死んだみたいな言い方。
思い当たる「ポッター」というファミリーネームに、どくんと嫌な予感がした。
最初の見開きに書かれている、経歴のところを見て、ナマエは言葉を失った。


ジェームズ・ポッターとリリー・ポッター夫妻の間に産まれる


「ジェームズと、リリーの、息子…?」
「ああ、あの二人は本当にいい魔法使いでしたね。本当に…残念なことです」

残念なこと、の言葉の意味など知りたくなかったけれど、その経歴を読み進めてゆけば、おのずとその答えは分かってしまった。
目の前が、真っ暗になった。
もしこれが、スネイプの口から知らされたことだったのであれば、自分はそれを完全に否定していただろう。けれど、第三者から文字として伝えられたその事実は、避けようもなく事実であった。

口の中がからからに乾いてしまって、脳みそがどこか遠くに飛んでいってしまったかのような感覚がした。

「二人は……死んだんですか?」
「例のあの人が、ポッター家を殺そうとしたが、赤ん坊だったハリーだけは殺せずに逆に力を失ってしまったと、世間ではそうなっていますね……というか、あんた、本当に何も知らないのかい?」

店主の疑うような視線も、ナマエは気にならなかった。
その本を店主に押し返して、何も言わずに店を出た。背後から何か言う声が聞こえたけれど、気にしない、気にすることが出来なかった。


ジェームズと、リリーが、死んでいる。
ヴォルデモートに、殺されて。


「……じゃあ、私がしたことは、いったいなんだったの?」

自分の存在を消してまで、なかったことにした過去。
その行為に、いったい何の意味があったのだろう。その一年後に、同じように悲劇が起こっているのなら、自分が全てを捨ててまで救いたいと願った命が、知らないところで失われてしまったのなら、自分がしたことはいったい。


ナマエは、いつの間にか漏れ鍋の前に来ていた。
スネイプのところに帰る気にはならなかった。帰ったら、彼を問い詰めてしまうような気がしたから。何故教えてくれなかったのかと、どうして希望を持たせたのかと。
どうせなら、自分の存在が消えていることと一緒に、知ってしまいたかった。
そうしたら、一度に押し寄せた絶望が、自分を跡形もなく飲み込んでくれたかもしれないのに。

切り取られた窓から、まだ若い魔法使い達が、店主と笑顔で話をしているのが見えた。
なんだか自分達だけが世界中の誰よりも不幸な気がして、ナマエは心臓が締め付けられる思いがした。自分達だけが、こんなに辛い経験をして、世間は暢気に平和を楽しんでいるのだ。無相応にも、苛立ちを感じた。

漏れ鍋のドアを開けた。
何も食べる気はしなかったけれど、どうやら常連であろうその男達のテーブルに座る。特に何かを考えての行動ではなかったが、案の定、男達は気さくに話しかけてきて、先の冒険とやらを熱く語りはじめた。
その話のどれもナマエの気を引けなかったことに困り果てたのか、そういえば、と男が話題を変えた。

「今、上に有名人が泊まってるんだぜ」
「……有名人?」
「そう、なんと、あのハリー・ポッターだよ」

ナマエは、飲んでいた酒のコップを、危うく落としそうになった。
カウンターの向こうに居た店主のトムが、困ったように人差し指を口に当てて眉を寄せる。少し酒の入った男は、それを手で払う仕草で返して無視をした。

「ハリー・ポッター……」
「そう!例のあの人を打ち破った英雄!」

ナマエは思わず、あたりを見回した。
会いたいとかひと目見たいという思いが具体的にあったわけではなかったけれど、頭が何かを考える前に、目は辺りを探していた。

目が、合った。

くしゃくしゃの伸び放題の黒髪に、黒縁の丸い眼鏡。
まだ成長途中の体は少し痩せていて、ひょろりとしている。
黒い眼鏡の中で、自分をじっと見つめ返す瞳は、とても澄んだ緑色をしている。

「ジェームズ……」

若い頃の彼にそっくりだった。しかし、美しい緑色の目はリリーの目だ。
見間違えるはずもない、彼は、二人の息子。
自分が出会うことが出来なかった、あのときリリーのお腹の中にいた、小さな小さな命だ。
目の前が、じんわりと霞んだ。


家族が増えるの。


あの時のリリーのこの上ない幸せな笑顔が、脳裏に浮かぶ。
二人は、あの子と少しでも家族でいられて、幸せだっただろうか。
自分があの死を無くしたことによって、彼等家族は、少しでも幸せな時間を過ごせたのだろうか。

「おーい、ハリー!」

ハリーと呼ばれたその男の子は、立ち上がって自分達のテーブルまでやってきた。


「この子がハリー・ポッター。例のあの人を倒し、生き残った男の子さ」

男が、彼の背中をどん、と叩く。
細身のハリーはその衝撃に負けて、少し前のめりになった。額を隠していた手がどけられて、髪の毛の隙間から、小さな傷跡が見えた。
ナマエは立ち上がると、少しだけ自分より背の低いハリーをじっと見つめた。
ハリーが顔を上げる。緑色の綺麗な目が、ナマエが世界で一番美しいと思った瞳が、ナマエを見つめ返した。思わず言葉が溢れる。


「生き残ってくれて、ありがとう」


そうか、自分は、この子を幸せにするために、今ここに居るのかもしれない。
ジェームズとリリーが、きっとそうしたように。



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