急須から立ち上る湯気で、頭がくらくらしている気がした。
何故自分がこんなにも緊張しているのか、バク自身もよく分からなかったが、心臓がどくどくと波を打っている。
手元を見つめるのが精一杯で、振り向く気にはなれなかった。
そんなバクを驚かせたのは、ナマエのおかしそうな笑い声だった。
「もしかして、昨日の朝からそのこと気にしてたんですか?」
「い、いや、ふと思っただけで...」
「そっか。だから昨日から、私に会ってくれなかったんですね」
「......」
バクは片手を額に当てて、心を正常に戻そうとした。
そんな彼の姿をみて、眠気から立ち直ったナマエがまた笑った。どうやら、すべてお見通しらしい。
観念するか言い返すか躊躇しているとき、ふと彼女の声色が変わった。
「....付き合ってる、って言ったらどうします?」
「...!」
ナマエは机に乗せたボトルの上に手と顎を置いて、伺うようにバクを見た。
どうする。
そんなことを考えてもみなかったバクは、自分自身に同じ疑問を投げかけていた。
どうしたかった?会わせてやりたかった?公私混同させるなと怒るつもりだった?
もしくは、
「(ただ、オレが知りたかっただけ、か?)」
これだけ苦労した計画だって、本当は直接聞くのが怖かっただけで。
二人が付き合ってると考えるだけで、何かもやもやとしたものが胸を覆って、それがひどく気持ち悪かったから。
真実を知れば、この黒い霧のようなものも晴れて、すっきりすると思ったのだ。
「どうします...?」
ナマエがもう一度、今度は先ほどのように挑戦的なものは伺えない、静かな声で言った。
すっと目を閉じて、息を吐き出すようにバクは言葉を落とした。
「......どうも、しない」
知ったところで何かをしようとは、思わない。すべては彼女自身のことなのだから。
アジア支部で預かっているというだけで、彼女のことに口を出すことはできない。
いくら家族のように大切にしていたって。
彼女には、彼女の自由が、選べる道がたくさんなければいけない。
いくら自分が、望んだところで。
少しの沈黙の間、ナマエはじっと床を見た後、顔を上げてにこりと笑った。
いつものふんわりとした笑顔ではなく、大人っぽい、綺麗な微笑みだった。
「付き合ってませんよ」
「え?」
「だから、リーバーはただの友達で、愚痴仲間。恋人なんて考えたこともないです」
「そ、そうなのか?」
はい!とナマエは力強く答えると、立ち上がって、持っていたペットボトルでバクの背中を思い切り叩いた。
「いっ...!なにをする!」
「変なこと勘ぐらないでくださいよー。私が恋とかするように見えますか?」
「....見えんな。こんな暴力を振るう女」
「ひど!」
ナマエはもう一度彼の背を叩くと、けらけらと笑った。
それから彼の手元を覗いて、空っぽの湯のみを発見して首を捻る。
「お茶、くれないんですか?健康と美白の」
「もうお前にはやらん!とーっっても高価なお茶だからな」
「えーケチ。ならもう仕事戻りますんで」
むす、とした顔を見せたナマエだったが、お疲れ様でした、と結局微笑みを浮かべて何事もなかったかのように、バクに背を向けた。
重たいドアが完全に閉まる前のその隙間で、
彼女の顔から笑顔が消えていたことに、バクは気がつかなかった。
「つかれた....」
バクはナマエが出て行ったのを見送ると、先ほどの彼女のように崩れるようにソファに座った。
どっと疲れが押し寄せる。ソファの豪華な生地が緊張した肌に心地よかった。
とても長い一日だった気がする。すれ違いがすれ違いを生み、ややこしい一日であった。
計画は計画倒れだったが、とりあえず目的は達成した。
それにしても、
「付き合っていなかったのか....」
バクは安堵のため息をついた。何に対する安堵なのかは分からなかったが、自然と肺が震えたのだ。
何にせよ、これでもう、ごちゃごちゃと悩む必要はなくなった。
これからまた、今までのような忙しいながらも平穏な日々が続くのだ。
何かがひとつでも欠ければ、あっけなく全てが崩れ落ちるような、アンバランスで危うい日常が。
能力も人望も持ち合わせている彼女は、きっとすぐに自分の手元を離れてしまうから。
自分にはそれを止める権利も、理由も在りはしないから。
許されるのなら。
もう少しだけ、あと少しだけ。
こんこん、とノックの音がして、バクは思考の海から引き揚げられた。
そういえばウォンは何処に行ったんだ、と気がつきながら返事をすると、青っぽい黒髪の青年が入ってきた。
自分が散々支部内を走り回るハメになった、原因の男である。
バクがすっと目を細めて何も言わずに見つめると、シスイはぴきん、と固まってロボットのように部屋に入ってきた。
「あ、あの....探していたデータが見つかったので届けにきたんですが....」
「そうか。ご苦労だったな。...ナマエには会ったか?」
「え?ええ!さっきそこで」
「そうかそうか....僕はもしかして、君が彼女に嫌われてるんじゃないかと思ってたんだが」
「は?」
バクは不敵な笑みを浮かべると、シスイからメモリを受け取ってゆっくりと部屋の中を歩いた。
一瞬にして態度が180度変わるのも、一部の人間には弱いが、他の人間は優位な立場から見下ろすのも彼の本来の性質である。
しかし、意地悪な気持ちが芽生えているのは事実だった。
「ほら、君は第二資料室に行ったと言っていたが....そこに彼女は居なかったのでな。ナマエが君に嘘をついたんじゃないかと」
「あれ?い、居なかったんですか?聞き間違えたんですかねーすみません」
シスイは見つめてくる上司の視線を避けて目を逸らすと、乾いた笑みを浮かべた。どうやら、何としてでも切り抜けるつもりらしい。
早く出て行こうとじりじり後退するシスイを尻目に、バクはある悪戯を思いつき、にやりと笑みを浮かべた。
どっと押し寄せてきていた疲れが、目の前の男への意地悪へと変換される。
どんな理由だか知らないが、彼がわざと嘘を教えてきたのは、今現在の行動を見れば明らかであった。それを易々と見逃すほど、バクは優しくない。
ふわり、とお茶のきつい香りが漂った。
「そうだ。シスイ、折角だからお茶でもどうだ?」
「え?い、いや...オレ仕事戻らないと、」
「高いお茶なんだ。ありがたく飲んでおけ」
二の句も告げさず、バクは置いたままになっていた湯のみにお茶を注ぐと、ぐいと押し付けた。
これを飲んで、何かするっと口を滑らしてしまえばいい。そして、そのことに後から後悔すればいい。上手くいけば弱みをもらしてしまえばいい。
いったいどんな質問を投げかけてやろうかと、復活した自慢の思考をフル回転して考え出す。
何かまずいことが聞ければよし。弱みを握れればなおよし。
が、しかしそれはバクの推測でしかなかった。
シスイは逃げられないと悟ると、意を決したように喉を震わせた。
科学者が差し出すものを簡単に口にしてはいけないというのが、この世界で生きていく掟であるにもかかわらず。
ごくり、と静かな部屋にやけに大きな音が響くと、彼の頬はすぐに酔っ払ったようにほんわりと赤く染まった。
試作品の試作品といえど、やはり効果はあるようだ。
あ、おいしいですね、などと言いながら、シスイは全て飲み干した。
「.....どうだ?」
「あー...なんか、気持ちがすっきりしました」
「そ、そうか?」
笑顔を浮かべた彼に、もしかして効かないのだろうかと疑い始めたとき、シスイがぼそりと呟いた。
「あの、オレ、支部長にずっと言いたかったことがあるんですけど、」
「ん、なんだ?」
どうせ髪がどうだの、仕事がきついだの、そんなことだろうと憂鬱に思いながらも身を乗り出すと、シスイはすっと息を吸ってバクの目をまっすぐ見た。
「オレ、ナマエさんが好きです」