「(オレ様のばかばかばか!いっぺん死んで来い!いややはり死にたくない!)」
わけの分からないことを考えながら、バクはわけも分からず疾走していた。
フォーの激震の一言に落ち込んでいたところ、当の本人に会ってしまったのだ。
彼の頭には昨日からの悩みに加え、衝撃が重すぎた。ショートしてしまった頭脳は役に立たず、気がつけば足が勝手に動いていた。
巨大な支部だからこその長い廊下を走りながら、しかしもう引き返すことも出来ないことは悟っていた。
逃げる形になるとは、なんと情けの無いことか。
「し、支部長待ってください!」
「....ナマエ!?」
「なんっで逃げるんですか!」
「気にするな放っておいてくれ!」
後ろを振り向けば、彼女が追いかけていた。小さな体を一生懸命走らせて、必死に叫んでいる。
だいの大人が廊下で鬼ごっことは、とどこか冷静な思考が少し戻ってくる。
そもそも何故追ってくる。彼女は自分を避けていたのではなかったのか。
バクがふとそのことに気がついて走るスピードを落とした瞬間、腰に手が伸びてきて団服を捕まれ、
「ぶふぅ!」
鼻先から見事にスライディングを決める形となった。
「な、何をする、」
「若さを侮る無かれですよ!」
「オ、オレはまだ20代だ!」
「あと少ししかないじゃないですか」
「うるさい黙れ離せ!」
バクが起き上がって叫ぶと、ナマエは一瞬ひるむが、キッと強い目をして団服を握りなおした。
そしてうつ伏せに寝転がったままの彼の腰に抱きついて、起き上がれないように地面に固定する。バクが焦って暴れるが、無視。
「は、離せ!」
「離しません!私にちゃんと謝らせてくれるまで、絶対逃がしませんから!」
「......は?」
「勝手に....一方的に、逃げるなんて、やめてください...」
きゅ、と団服を握って俯いたナマエは、先ほどの瞳のまま、珍しく弱気でしゅんとしていた。
滅多に見ないその姿に動揺し、バクは自分の置かれている状況を一瞬忘れるが、周囲の音にはっと気づいて、ため息をついた。
「...わかった。わかったから、とりあえず退け」
「だから退きません!だって支部長逃げるじゃないですか!」
「だから分かったと言っておろうが!周りを見ろ!」
ナマエが不機嫌な表情で顔を上げる。しかしその直後、眉間に皺を寄せていた顔はさっと青ざめて、次に頬に熱を集めて口をぱくぱくさせた。
「あ...あ、」
ざわざわと回りに人が集まってきていた。
彼等が興味深げに見ているのは、床に突っ伏した彼等のボスと、それに抱きついて彼を押さえつけてる同僚。
傍から見れば実に奇妙な光景である。仕事に行き詰った研究員たちまでもが、騒ぎを駆けつけてやってきていた。
「ごごご、ごめんなさい!!!」
ナマエは普段出さないような大声を出して、真っ赤な顔でバクの上からその背中を蹴るように立ち上がり、逃げ出した。
解放されたバクは、なんとか威厳を保って回りの研究員に仕事に戻るように促そうとする。
が、すぐに何のために貴重な一日を費やしたのかを思い出し、蒼白になって振り返った。
「お、おい待てナマエ!」
本日二度目の追いかけっこのはじまりである。
「やっぱり歳ですね、支部長...」
「き、貴様が走るのが速いんだ。オレは通常だ!」
ぜえはあと息切れをしながら、彼等はなんとかバクの部屋まで辿り着いていた。
あの後必死に逃げるナマエを捕まえるのに、正攻法で後ろから追いつくことは出来ず、先回りまでする羽目となった。
重たい扉を閉めてライトを灯すと、モニタールーム程ではないがいくつかの画面が並び、広い机には山積みの資料が防壁を成していた。
バクは机に置いてあった飲料水のペットボトルを開けると、ぐびぐびと飲んでからナマエに放って渡した。
「...で、オレに謝ることとはなんだ?何をやらかしたんだ」
「.....え?何って、定例会議のこと...」
「は?」
「私が皆に誕生日会のこと話したから、怒ってたんじゃないんですか?」
ナマエは困惑した表情で首を傾げた。
少しの沈黙の後、バクは思い出したように手を叩いた。すっかりと頭から抜け落ちていたことであった。
思い出すと段々と怒りがこみ上げてくる....気がしたが、もはや忘れていたことである。コムイや本部科学班への恨みは再燃したが、目の前の彼女を怒る気にはならなかった。
「.....お、怒ってないんですか?」
「怒ってる。が、もう気にしていない」
「....私のこと、嫌いになったんじゃ、ないんですか?」
「...は?」
「だって...支部長が部屋に居ないから、私、探し回ったんですよ?でも見つからないし、逃げるし、避けてるかんじだったし、」
「ま、まて。お前こそ、オレを避けていたじゃないか。一日中、この広い支部内を探し回ったんだぞ」
「は?何言ってるんですか?」
二人して見詰め合い、相手の真意を探ろうと頭をめぐらす。
しかし、頭の良く出来ている二人は瞬時にすべてを理解し、ほぼ同時にため息をついた。
つまり、お互いがお互いを探して、すれ違いを繰り返していたということだ。
ナマエは力が抜けたようにふらふらとソファに座り込んで、冷をとるようにペットボトルを額に押し当てた。
一日の疲れがどっと押し寄せて、嬉しいやらばかばかしい思いやらで、そのままずるずるとソファに沈み込む。
「はー...よかった」
「.....な、なんだそんなに心配だったのか」
「だって、支部長すぐ根に持つし、一回嫌われたら面倒だなーって思って」
「...その発言のほうが寧ろ腹が立つぞ」
二人は目が合うと、示し合わせたように笑いあった。
よくよく考えれば、そんなに思い悩む必要のないことだったのだ。
何年もこの支部で暮らして、喧嘩なんて山ほどしたし、それでも今こうやって二人で居るのだから。
こんなにもナマエのことで一生懸命になっていたその理由をバクは知らなかったが、とりあえずの結果に、心の中で安堵のため息を漏らす。
しかし、めでたしめでたしの空気の中で、彼はそのまま流されてしまいそうだったある重大なことを思い出して冷や汗を流した。
「じゃあ、仕事戻りますね。お騒がせしました」
「....!いや、待て、お茶くらい飲んでいったらどうだ!?」
当初の自分の目的を。
「でももうお水もらいましたし」
「健康にとーーーってもいいお茶が手に入ったのだ!飲むだけで仕事が捗ること間違いなし。美白効果もあるぞ!」
「.............そんなに言うなら」
ナマエは訝しい目をしながら、ソファに座り直した。そしてじっとバクを見つめる。早く淹れろ、ということである。
「(部下のくせに態度がデカイのは、もしやフォーの影響か...?)」
そんなことを考えながら、バクはなるべく平静を装ってポットの湯を沸かしなおす。
このお湯を入れて、ある程度色が出たら使い時。
真実のお茶と言っても、試作品の試作品である。本心を聞きだせる時間はたったの3分ほど。
こぽこぽと、お湯の沸く音が響く....それにしても、静かである。
「......」
「......おい、ナマエ。寝るなよ」
「起きてますよ」
こぽこぽこぽ。
「(....もしかしたら、これを飲ませるのはかわいそう、か?)」
突然、本部でウォンにお茶を飲めと言ったときの、あの死刑を宣告されたような顔を思い出した。
自分に対して本音を明かすことに抵抗があったのだろうが、確かに自分だったらあまり気分のいいものではない。
そもそも、彼女から言いたくないことを無理やり聞き出して、それこそこの関係を壊すようなものではないだろうか。
バクは沸いたお湯を急須に入れながら、そっと彼女を振り返った。
起きている、と言ったくせに、ペットボトルを握ったままうとうととしている。子供のようなその姿に、バクは手に持っていた湯のみを置いた。
「.....ナマエ、ひとつ、聞きたいんだが」
「ん....なんですか?」
「その、だな。あれだ...うん、その、それだよ」
「どれですか」
「あのだな、うん……リ、リーバー班長とは、どういった関係なんだ?」
「え?」
ナマエは眠そうに瞑っていた目を開いた。
かち、と規則正しい時計の音が、やけに大きく聞こえる沈黙が訪れた。