カタカタ、と静かな音でキーボードを打ちながら、シスイは目の前で瞳を伏せている彼女にそっと目を移した。
その長い睫が作り出す陰に、気持ちが持っていかれそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
真剣に仕事に向き合っている時の彼女は、普段のふんわりとした雰囲気ではなく、大人の鋭さを持っていて真っ直ぐな目をしている。


はずなのだが。


「あの、ナマエさん、それ、資料逆さまですよ?」


伏せられていたナマエの綺麗な瞳が、ぱちり、と驚いたように見開かれる。
シスイは遠慮がちに彼女の手元の紙を取り上げて、天地を逆にして返した。
ぽかん、と手元を見ていたナマエは、数秒後に状況を理解して顔を赤く染めた。
あ、かわいい。と、とても自然に口に出しそうになったシスイは、思わず口を片手で抑えた。

「ご、ごめん」
「珍しいですね。どうしたんですか?」

他の研究員なら集中してくださいよ、なんて笑い飛ばすところだが、それがナマエなら別だ。
休憩と宣言してから居眠りすることはあれど、仕事をするときはしっかりとこなす。それが彼女が周りから信頼されている所以でもある。
シスイは、心の隅に不安を感じながら彼女の顔を覗きこんだ。
ここ数日、支部長の代理として彼女はとてもよく働いていた。体調を心配したが、顔色は悪くない。彼女は眉をひそめ困った顔でうーん、と唸った。
どうやら、何か思い悩んでいる様子だ。

「あのさ、シスイくん」
「はい」
「わたし、やらかしたかもしれない」

は?と今度はシスイが間の抜けた顔をつくる番だった。
こういう、悶々と考え事をしている彼女の言葉が要領を得ないのは、この一年で理解し始めていたが、やはり咄嗟には対応できない。
彼女はしばらく空中に目を逸らして考えてから、「シスイくんは、昨日の朝食堂に居なかったけどさ」とぽつぽつと話し出した。

「へー…本部でそんなことがあったんですね」
「そーなの!本部の科学班が考えることってホント面白い…て、そういうことじゃなくて、ね?」
「はい」

なんとか伝えようと懸命に喋るナマエに、シスイは不謹慎にも心を和やかにさせて微笑んだ。
一方で彼女は眉間に深い皺を寄せて、至極困った顔をしている。

「もしかしたら支部長をすごく怒らせたんじゃないかな、って」
「あー…でも、フォーさんと一緒に支部長をからかうなんて、いつものことじゃないですか」
「そうなんだけど…でもほら、支部長ってすごく繊細じゃない?」

昨日あれから一回も会わなかったし、食堂にも顔出さなかったし、なんか部屋に篭ってたみたいだし。
ウォンさんに聞いても、困ったように笑うだけだったし。

ナマエは思い当たる理由を並べて、さらに皺を深くさせた。

確かに、とシスイも昨日一日を思い出して首を捻る。
何かにつけて支部内を歩き回るのが好きな支部長が、昨日は一度も研究室に現れていない。

「あ、そういえば、ジジさんが、支部長の様子がおかしかったって…」
「うわーやっぱり!どうしようシスイくん…わたしのせいかな、そうだよね絶対…」
「うーん、とりあえず、謝りにいきますか?俺ついていきますよ。仕事もあとちょっとだし」

優しく言ったシスイに、ナマエは一瞬うれしそうに目をきらきらさせたが、すぐに険しい顔に戻り首を振った。
責任感の強い彼女のことだ。ついてきて、と頼まれるとは思っていなかったが、シスイは少し寂しい気持ちで頷いた。

「よし!ちょっと支部長の部屋行ってくる!悪いんだけど、残り任せてもいい?」
「はい。頑張ってください!」

席を立って拳を突き上げると、ナマエは決心した顔で頼もしげに笑った。

意気込んで出て行ったナマエを見送りながら、シスイは先日も彼女の背中を見送る光景があったことを思い出した。
先輩から言われた根拠のない噂が同時に蘇って、一人きりになった部屋で、彼は先ほどのナマエのように眉間に皺を寄せてため息をついた。
想い人に好きな人がいるなど、なんて残酷な噂だろうか。しかも、事実性がないときた。
確信もなしに気を揉むだけ。ましてや本人に尋ねるなんてもってのほかである。

シスイは、もはや大分前に打ち込みが終わってしまっていた資料を宙に投げた。

何かにつけて、彼女と一緒に居る口実を作っている。自分でもくどいと思えるほど、彼女に優しくしている。
傍に居たいというのが本当だが、こちらの気持ちに気づかせようという意図があるのも真実だ。

それでも彼女は、何も気が付かずにいつも通り笑うだけ。


「いつになったら、気づいてくれるんだよ…」


額に手をあてて、浅く息を吐いた。

あの噂は、本当に噂なのだろうか?
そんな疑いが胸を締め付ける。彼女と支部長は、自分が知らない時間をたくさん共有している。
何か自分が踏み込めないような、そんなつながりが彼女達の間にはあるように思える。

支部長が帰ってきたと知ったときの、あの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。

「……あーあ、だめだ」

シスイは首を横に振って、その残像を打ち消した。
散乱していた資料をまとめ、パソコンの電源を切って立ち上がったとき、思いもよらずドアが開かれる。


「ああ、シスイか」


部屋の中を見回して、ぽつりと呟いたのは、先ほどまで悩みの種となっていたアジア支部長のバクであった。
なんだか残念そうな声音である。
たった今、彼女が会いに行ったはずなのに、どうしてここに居るのだろうか。そんな疑問がシスイの頭の片隅をよぎる。
そして同時に、胸の奥をかすめる何か黒いもの。

「支部長、どうしたんですか?」
「いや、まあ…ナマエはいないのか?」
「え、だってナマエさん今……」

シスイはそこで口を閉じると、何かを思案した後にさっと目を逸らした。
そのまま机の上の資料に視線をやりながら答える。

「ナマエさんだったら、第二資料庫に行きましたよ」
「本当か?」
「な、なんで疑うんですか?」
「いや、邪魔して悪かったな」

バクの足音が聞こえなくなると、シスイは唸り声を上げて髪をくしゃくしゃとかき混ぜ、額を机に打ち付けた。
わざと嘘を教えるなんて、なんて子供なんだろうと一気にばつの悪さがこみあがってくる。
支部長に感じた小さな嫉妬心を、そのままぶつけてしまった。あろうことか、とても子供っぽい方法で。

自分だけが振り回されて、ぐるぐる袋小路になっている気がして、頭の中が混乱していた。

彼女に近づきたいと、少しでも大人になろうとするほど、自分が幼くなっていくようで。

「(何やってんだ俺、かっこわる…)」

シスイがまた盛大なため息をついたのは言うまでもない

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