本部で蓄積された疲れがベッドに沈む体をさらに重くさせて、シーツを撫でた次の瞬間には意識を失っていた。次に気が付いたときは、朝であった。

バクはぱちりと目を開けると、時計を確認するよりも先に、ベッドの中で恐る恐る自分の髪に手を伸ばした。
その髪はいつものように絹のように細く柔らかく、短く切りそろえられている。

彼は安心のため息を漏らし、起き上がる。それから蘇る悪夢に顔を顰めた。

本部での誕生日パーティ騒動は、彼に相当のダメージを与えていた。
真実のお茶にまつわる奮闘。コムイのシスコンが原因の生死に関わる銃乱射事件。ライバルの恐ろしさの再認識に加え、極めつけは科学班作の育毛剤であった。
間違った日に誕生日を祝われたのは、まだいいとしよう。
だが、プレゼントと称して渡された育毛剤は、ただ自分を実験台にしようとしただけで、何故かお化けのように伸びてしまった髪は切っても切っても元に戻らなかった。
全体会議の時、自分の長髪姿を見たときのレニー北米支部長の大爆笑を思い出して、バクは眉間に大いに皺を寄せた。
どうしようもない大恥である。

「この仕返しはいつか必ず…!」

バクが拳を握り締めたとき、ウォンが扉を叩く音が聞こえた。
時計に目をやれば、いつもの起床時間ぴったりであった。



少し気だるい感じを覚えながらも、朝食をとりに食堂へ行くと、ナマエとフォーだけでなく他の研究員たちもがひとつの机に集まって何か話していた。
朝から何やら楽しそうである。何事かと訝しがりながら隣を通りすぎようとすると、研究員の中から顔を覗かせてナマエが声をかけた。

「おはようございます、支部長」
「「おはようございます!」」
「あ、ああ…元気だな君達」

自分はこんなにも憂鬱だというのに。
呆れたように言ってみせれば、支部長はお疲れですね、と暢気な答えが返ってくる。
なんだかその元気についていく気力がなかったので、そのまま食事を頼みに行こうとすると、フォーが身軽に立ち上がってちょこんと彼の前に立った。
身長こそ彼より低いが、体に似合わぬ偉そうな態度で、こちらが見下ろしていることを感じさせない。
そのフォーが、にやりと笑う。嫌な予感。


「なあバク、誕生日パーティはどうだったんだ?楽しかったか?」
「なっ…!?」
「あれ、でもバクの誕生日って、まだ半年先じゃなかったっけ?」

バクをからかうのが彼女の楽しみ。それは本人自身も理解していたが、まさかのネタである。
彼は動揺を隠し切れずに、咄嗟にウォンを振り向く。彼はぶんぶんと首を横に振っていた。どうやら彼が情報を漏らしたわけではないらしい。
今度は研究員たちに目を向ければ、彼等も同じように悪戯っぽい笑みを浮かべていた。察しのよい頭が瞬時に解答を導き出す。

「まさか…」
「でも残念です。わたしもロングヘアーの支部長みてみたかったな」

にこりと悪気ない可愛らしい笑顔を浮かべて、最悪の予想を実現させたのはナマエだった。
寧ろこの笑顔が怖い。バクは蕁麻疹が出るのを気力を振り絞り必死で押さえ込んだ。しかし手の甲が少しかゆい。


「な、なぜそれを知っている!どこでその情報を…!」
「私がリーバーから聞いたんです」

ナマエが挙手をして、けろっとした顔で何でもないように言う。てっきり宿敵コムイが流したのだと思っていたバクは、返答を失う。
目の前のフォーが面白そうにこちらを見ているのにも気がつかず、驚いた顔のまま彼女の肩をつかんだ。

「リーバーって、本部のリーバー班長か?」
「他に誰がいるんですか」
「なぜ」
「なぜって…昨日電話したら、面白い話があるんだぜーって」
「電話?仕事か?」
「いや、プライベードですけど」

普段なら、プライベートで本部との回線を使うな、と叱るところであったが、バクはそれどころではなかった。
初めて聞いた事実が、心臓を雷のように貫いて、麻痺させているようだった。

「…お前ら、仲良かったのか?」
「え?入団してからずっと仲良しですよー」

この瞬間、朝から引きずっていた憂鬱がどこかへ吹っ飛んでいった。



「(どういう関係なんだ……)」

ぐるぐると言葉にならない、とりとめのない何かを考え続け、バクがこの疑問に辿り着いたのは日が随分と高くなった頃だった。
それまでは、ただぼーっとして、部屋を歩き回ってはお茶を飲んでいた。自分が頭をフル回転させていたのは分かっていた。だが、何を考えていたのかが、わからない。
少しだけ仕事に手をつけたときに、やっとこの疑問が頭に浮かんだのだ。

「(プライベートで電話を……)」
「支部長ー?」
「(もしかして、ナマエが会議についていきたがるのも、リーバーに会うため…?)」
「あの…バク様?」
「(それならオレはどうしたらいい?あいつのために、連れて行ってやるべきなのか…)」
「き、け、よ!!」

鼓膜が揺れるほど耳元で大声で怒鳴られ、バクは現実に引き戻された。頭のもやもやは消えないままだったが、すっと目の前の景色が網膜に映りだす。
見上げれば、憤慨した様子のジジが書類の束を抱えて立っていた。

「あ、ああ、すまん」
「ったく。どうしたんですか、ぼーっとして」
「いや、気にするな。それはそこに置いておいてくれ」
「ハンコが欲しいだけなんですけど」
「あ?そうか、じゃあ今、」
「ずれてる!押すとこそこじゃないって!」

ジジは慌ててバクから判子を奪うと、やり直しだよ…と書類を掲げてため息をついた。

「…すまん」
「しっかりしてくださいよー。なんかあったんですか?」
「いや、気にするな…仕事を増やして悪かったな」

ジジは呆れたように笑うと、ちゃんと休みを取ってくださいよーと気遣いを残して仕事に戻っていった。
休みをとっても仕方がない。バクはそう思い、仕事に取り掛かろうとするが、もやもやが繁殖するだけである。
時計の音が進むだけで、仕事は一向に進まない。胸の中の吐き出したいほどの靄が、頭脳の動きを鈍らせている。


ナマエは滅多にプライベートな話を仕事には持ち込まない。彼女の公私のけじめは素晴らしいものである。もしかしたら、自分よりも。
だから、普通に聞いても彼女は笑って誤魔化すに違いない。
自分がどんなに考えても答えが出ないのは明らかだが、他に思いつく方法がなかった。
ナマエと仲の良いフォーなら知っていそうだが、こちらこそ聞いてもからかってくるだけに決まっている。


そのうち、動かない頭を回転させることが苛立ちに変わり、椅子を蹴って立ち上がり天井に向かって吼えた。
部屋の隅でお茶を入れていたウォンが飛び上がる。

「何故、なぜ、このオレ様がこんなに考えねばならん!」
「バ、バクさまお気を確かに!蕁麻疹が…」
「そもそも仕事以外で本部に電話をかけるとは何事だ!けしからん!」
「もしやナマエ殿のことで?」
「そうだ!あの馬鹿のことで、オレ様がこんなに気を揉むとは…!」

ウォンは暴れる彼をなんとか押さえつけて、椅子に座らせて落ち着かせる。
まるで酔っ払いのように、バクは出された紅茶を一気に飲んで机につっ伏した。

「つまり、ナマエ殿たちの関係が気になる、と」
「あいつがリーバー班長に会いたいのなら、オレは保護者として、会わせてやらねばならん」
「本当にそれだけで?」
「は?」

バクは、何が言いたいんだ、と呆けた顔を上げた。疲れた顔に、随分と悩んだ跡がある。
幼少の頃から傍にいたウォンである。彼のことは、もしかしたら彼以上に理解している自信があったが、それ以上は何も言わなかった。

「いい考えがございますよ」
「なんだ?」
「あれの試作品が、まだ手元にひとつ残っております。効き目は短いのですが」
「…あれ?」


ウォンは彼の次の反応を心の中で確信しながら、恭しく礼をした。


「真実のお茶でございます」

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