「もうだめかも…」

ここアジア支部からは、今日も相変わらず外の様子は窺えないが、22時をしらせる時計の音が辺りに鳴り響いた。
もう世界は眠りにつき始める時間。しかし科学班にとっては、これからが山場となる時間である。

時計の音に一瞬だけピタリと動きを止めて、ナマエはぼうっと扉のほうを見つめて呟いた。
この部屋に一人で閉じこもって、かれこれもう数時間ずっと、同じ体勢で計算を続けている。疲労感が段々と蓄積されてきて、脳を静かに締め付け始めていた。
集中して見ている一点から少しでも目を離すと、段々と数字が踊っているようにも見えてくる。
そろそろ末期かな、なんて乾いた笑みを一人で浮かべていたところ、こんこんとドアを叩く音に続いて足音がした。

「ほい、ナマエお疲れさん!」
「あ、ジジさん。ありがとうございま――」

満面の笑みと共に机の上に置かれたのは、期待通り差し入れ――ではなくて、大量の紙の束だった。
どすんと音を立てて置かれた量に、首と肩の接続部分に同じようにその重みが乗っかったような気がした。
そこにもやはり数字がぎっしりずらりと並んでおり、混じるアルファベットがざまあみろと笑っているようにも見えてきた。
これをいったいどうしろだなんて、無粋な質問だ。

「いやー、やっぱり数日でも支部長が居ないと仕事が溜まってしょうがねーな」
「そう、です、ね…」
「会議も少し減らして欲しいよな。ただでさえ、こっから本部まで相当かかるってのに」
「あ、でも今日でしたよね。帰ってくるの」

思い出したように顔を上げると、ドレッドヘアーの男と目が合う。
頭にチャイナ帽を乗せて一見ハデで奇抜な人物だが、ナマエにとってはとても頼りがいのある人物だった。何より仕事がたいへん早い。しかし如何せん、上と喧嘩をして本部から飛ばされた経歴がある故、やはり周りから変人扱いされることも多い。
ナマエの弾んだ声を聞き、彼は眼鏡の奥で目を細めた。

「嬉しそうだねぇ」
「そりゃあ、仕事減りますし。賑やかになりますからね」
「なんだかんだいって、フォーも寂しそうだしな」
「あはは、ほんと」

バク支部長が定例会議で本部に出かけている間、彼女はあまり姿を見せない。
ナマエもその間は仕事が忙しくて話もろくに出来ないので、彼女は大体いつもの場所で寝ている。
毎日彼等の周りで騒がしい日々を送っているナマエにとっては、静か過ぎて物足りない数日間である。

「あーあ、私も久しぶりに本部の皆に会いたいなー。なんで支部長連れてってくれないんだろ…」
「ばか言うな。お前まで行っちまったら、ウチが困るだろうが」
「あー……」

それもそうだと目の前の紙の山を見て、納得する。こんなとき、我らが支部長の忘れられた偉大さを思い知るのだ。仕事の出来る彼がいないだけで、アジア支部の機能は回りが悪くなってしまう。
各地の支部長や責任者が集まる定例会議は欠かせないので、仕方の無いことなのだが。


「ナマエさん、支部長とウォンさん帰ってきましたよ」

こんこんとまたノックの音がして、ひとりの男が顔を覗かせた。
青みがかった黒色の短い髪、深い海のような大きい瞳を持った青年は、1年前から一緒に仕事をしているチームメイトだ。
彼はナマエを見つけると、にこりと笑った。

「ほんと!ありがとシスイくん。じゃあ私、ちょっと迎えに行ってきますね」
「出来るだけ早く仕事もどれよー」
「はーい!」

ナマエは壁に止めてあった資料を数枚取って、嬉々として部屋を出て行った。
後に残った男達は、お互いに顔を見合わせて、笑みを零す。

「ナマエさん、ほんと楽しそうですね」
「あいつ支部長のこと好きだからなー」
「ええ、そうですね…て、ちょっと待ってください」

青年の笑顔が引き攣る。
ナマエの座っていた席にどっかりと腰を下し、手元の資料を流し見するジジに、おそるおそるといったように近づく。

「え、まさかその"好き"って…」
「その好きだろ」
「それナマエさん本人が言ってたんですか?」
「いんや、ただのオレの勘」
「な、なんだ…ジジさんの勘なら…」
「ほうほう、シスイくん。どうして焦ってるのかなー?」
「な、なんでもないです!じゃあ僕仕事戻りますから!」

ばたん、と大きな音を立てて出て行った後ろ姿を見送って、男は面白そうに笑うと、おもむろにペンを取って紙に走り書きをする。
それはその計算式の答えであった。それを満足そうに見ると、束の一番上に戻して席を立つ。
彼はドアを閉めざまに部屋を振り返ると、小さくため息をついた。
いくらプライベートの部屋ではないにしろ、散らかり放題仕事の跡ばかりの女らしさのかけらもない部屋である。
先ほどはああ言ったが、彼女自身そのような恋愛の類にまったく気がついていないのだろう。幼い頃から教団に籠って計算式ばかり解いている彼女が、年頃の一般的な思考を持ち合わせないのはいたしかたないことである。そして、その相手こそが彼女に色気のない生活をさせているのだから手に負えない。

「ま、年頃の女ってのは大変なもんだな、ほんと」





奥行のある広間に、ブーツの底が床を叩く音が反響する。
同じ地下といえど、本部の水路のような、じめじめとした湿気はない。適度な温度が部屋を満たし、からりとした空気があたりを包んでいる。

なんだか誇らしい気持ちになる。
帰ってきたのだ、アジア支部に。

バクは疲労で前のめりになりかけていた体を、息を大きく吸って力を入れて直立に立たせた。
ここに戻ってきたからには、自分の地位らしい振る舞いをしなければならない。
さらに大きく息を吸って胸を張る。

すぐにでもベッドに転がりたかったが、科学班の研究所で留守の間の事を聞かなければならない。
そのとき、廊下の暗闇にちらり、と光るものをみた。


「…ふげ!」
「遅ぇよバカバク!」

みた。と思ったのも束の間、次の瞬間には閃光のごとく走ってきた"それ"に、見事な跳び蹴りを喰らわされて地面に後頭部からスライディングをしていた。
飛び散る星を眺めながら、がばりと起き上がって目の前に仁王立ちしている少女に叫ぶ。
体こそ小さいものの、その正体はここの守り神。眼光には誰も逆らえない強さがある。

「フ、フォー!突然何なんだ貴様は!」
「バク様!だ、大丈夫ですか?」
「何日もここを開けすぎだって言ってんだ!会議なんてぱっと行って帰ってくればいいだろ!ナマエに仕事押し付けやがって!つまんねーんだよ!」
「だからといって蹴る理由にはならんだろうが!」

抗議をしても、フォーは不機嫌な表情で睨みを利かせるだけであった。
確かに、ぱっと行って帰ってこれなかったことは事実である。仕事を押し付けてしまっていることも事実である。しかしその原因は別の男にある。
バクは理不尽さに胸をむかむかさせて悪態をついた。それがさらに彼女の機嫌を悪くさせるのだが。

「あぁ?おめぇ、アタシに文句でもあんのか?」
「常にたくさんあるぞ」
「ほーう、いい度胸じゃねーか」

フォーがきらりと目を光らせた。やばい、と事態を把握したとき、その場の空気をがらりと変える、明るい声が広間に響いた。

「支部長!ウォンさん!遅かったじゃないですか!」

ナマエが小走りにこちらにやってきていた。
バクは頭をさすりながら上半身を起こして、彼女の姿を見ようとした。
科学班の象徴である白衣が歩くたびに靡いて、そんなに鋭くないヒールの音がリズムを刻む。
少し疲れた表情だが、口元も目も、笑っていた。
なんだかほっと安心した気持ちが、バクの心に染み出した。

「フォー。支部長疲れてるんだから、喧嘩はまた明日にしてあげて?」

彼女は目の前まで来ると、フォーを背中から抱きしめる。

「ちぇ……」

フォーは彼女の腕に大人しく収まり、つまらなさそうにそっぽを向くと、大きな欠伸をして背伸びをする。
「ヒマな奴め」と恨めしそうに呟いたバクの頭に、去り際の強烈な彼女の拳が振り下ろされたのは言うまでもなく。
彼女が去ったのを確認してから、呆れたようなウォンの声が通路に響く。

「余計なこと言うからですよ、バク様」
「なんなんだあの暴力の塊は…!」
「ああ見えて寂しかったんですよ。それにしても、支部長、なんだか本当に疲れてますね。会議難航したんですか?」
「あ?まあ…会議はスムーズだったんだが、その他が、な」
「他?」
「いや、いい。気にするな」

バクは帽子を直しながら、そっと自身の髪に触れた。
お労しやバク様、とウォンが涙を拭った。

「そんなことより、何か変わったことは?」
「支部長が遅かったせいで、仕事が山のように溜まってます」
「……」
「それから、支部長が放置していった書類のせいで、私は今死にそうです」
「……」
「あとは…あ!」
「なんだ?」

立ち上がって服の埃を払い落としながら、文句をつらつらと並べてくるナマエの言葉に顔を向けると、言葉とは裏腹に、彼女は心底嬉しそうに笑っていた。


「言うの忘れてました。支部長、おかえりなさい」


柔らかく微笑む彼女に、一瞬膝の力が抜けそうになり、慌てて踵に力を入れる。
地下水路で思い描いた笑顔よりもずっと眩しくて、心がすっと軽くなったような気がした。
ああ、帰ってきた。自分だけの居場所に。


「ただいま」


改まって言うのは少し照れくさい気がしたけれど、彼女が嬉しそうなら、それでいい。

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