ひたひたと水の音が響く地下水路を、バクはその先の小船を目指して歩いていた。
湿った空気と時折頬をかすめる水滴が、未だに少し不快だった。
時折浅い水溜りに足を踏み入れ、ばしゃりと小さな音が跳ねる。
いつもは付き人のウォンが一歩後ろを歩いているのだが、今は先に船に行って荷物を積んでいる。ウォンではないもうひとつの足音が、背後で無遠慮に水溜まりを蹴った。

「…コムイ。見送りなど必要ないのだが」

彼の雑な歩き方が無性に癇に障り、バクはトゲを隠さない声で振り返る。
後から着いて来ていた長身の男が、薄暗い地下水路にそぐわない、とびきりに明るい声で笑った。

「いやー、バクちゃんが迷子になったらいけないと思ってさ」
「なるか!貴様は仕事をサボりたいだけだろう!」

怒鳴り声を上げると、水路に声が反響してずっと遠くまで響き渡り、蝋燭の明かりがゆらりと揺れた。
定例会議も終わり、すべての支部長や責任者がこの水路を使って帰っていった今、彼等の声以外はしんと静まりかえっていた。

「大体、貴様らの妙な薬のせいで、こんな遅くなってしまったではないか...」
「あの髪のまま帰ればよかったじゃないか」
「ふざけるな!」

事件は昨日のこと。
科学班からプレゼントされた育毛剤を頭に振り掛けたばっかりに、髪は伸びに伸びて腰まで到達し、果てには切っても伸び続けるという、ホラー映画のような事態に陥ってしまったのである。
やっとのことで効果が切れ元の長さに戻ったのが、つい先ほどのことだった。
しかも自分の誕生日を間違われたものだから、祝ってもらえて嬉しいやら悔しいやら複雑な心持である。

ここからまだ数時間、船に揺られて汽車に乗り込み森を歩かなければいけないというのに、もうすでに疲労感を感じていた。
目の前の男、コムイ・リーと関わるとろくなことがないのだ。アジア支部で競り合っていた時から、彼と会うとまるで生気を吸われるようである。早く帰りたい気持ちで、自然と足早になる。

「そうだ。バクちゃん」
「その呼び方はやめろ...」
「ナマエは元気かい?」

バクは動かしていた足を止めて、コムイを振り返った。
薄暗い中でよく見えなかったが、眼鏡の奥で飄々とした瞳が和らいだのが分かった。彼女の話となると、この男がどんな顔をするのか、バクは嫌という程よく知っている。

「ああ、元気だよ」
「ちゃんとご飯食べてる?ちゃんと睡眠とってる?まさか君、こき使ったりしてないだろうね?」
「貴様は母親か」

冷たくあしらうと、彼は「心配なんだよー」と情けない声をあげた。

「…毎日、楽しそうにしてる。文句も生意気も多いし、うるさいぐらいだ」
「そっか、よかった」

ほっとした表情で笑うコムイは、まるで実の兄のようであった。その顔に、バクも肩の緊張を解く。

いつもそうであった。
彼女の話題となると、ぴりぴりした空気がすっと和らいでいくのだ。
砂に水が溶け込むように、静かに優しさが広がってゆくのが分かる。
コムイもバクも、本気で彼女を心配して大切にしているからだ。

「あーあ、やっぱり室長になったときに本部につれてけばよかったなあー」
「な…、入団してすぐ本部勤務なんて、アイツに変なプレッシャーを…」
「わーかってるよー。だから、アジア支部にあげたんじゃないか」

ま、君のとこのほうがいいと思ったのもあるけどさ。
コムイは過去を思い出すように遠くを見て笑った。昔を懐かしむその微笑みには、少し幼さも感じられる。
しかしそれもすぐに消えてへらりとしたいつもの笑みを浮かべ、複雑な顔をしているバクを振り返る。

「今度はさ――」
「あ、いた!室長なにサボってるんすか!」

突如大声が響き渡って、蝋燭の光にぼやけながら、白い塊がこちらへ猛スピードで走ってくる。リーバーを先頭とした科学班集団であった。
コムイは突然の機敏さを見せ、数歩前の角を颯爽と右に曲がる。

「待てー!」
「バクちゃん!今度はナマエも連れてきてよ!」

コムイは白い塊を引き連れながらそんなことを叫ぶと、科学班の雄たけびと共に、薄暗い闇に消えていった。
水路は再び静けさを取り戻し、前方から走ってくるウォンが立てる水の音だけが控えめに響いていた。

「…なんなんだ、あいつは」
「バク様!何やら騒がしかったようですが、どうかなさいましたか!?」
「いや…」

バクは説明をするのも億劫に感じ、家路につくためにまた歩き出した。先ほどよりも、更に早歩きで。
肩に疲労がずっしりと乗りかかっていたが、地を踏みしめる足だけはしっかりしていた。


アジア支部に着く頃にはくたくたになっているだろう。特別に急ぐ要件があるわけでもない。
それでも、なんとなく、少しでも早く帰りたかった。

なんとなく、彼女に早く会いたくなった。


「(ナマエ…か)」


きっと笑顔で迎えてくれるだろう、彼女に。

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