未送信だったものは、もう一度やり直せばすぐに終わるものだった。はあとため息をつき、ごろごろと転がる研究員たちを跨いで部屋に戻ろうとして、バクは足を止めた。

頭の中が真っ白だったことに気がついたのは、それから暫くしてから。

何も考えられないというのは嘘。考えないようにしていたのだ。


私は、支部長の、なんですか。


その質問は、ずっと前から自分に問いかけてきたもののように思えた。
だから、考えたことがない、なんていうのは、これも嘘。自分で課した問いを、彼女本人に聞かれて、動揺したというのが本当。
そして、答えが一向にわからないことも、本当。

部屋に戻っていいものか。でも、このまま彼女を置いて行ったら、ずっと後悔をするような気がしていた。このまま目を逸らしてはいけないと、わかっていた。
それに、

「シスイ、」

彼のことを思い出して、何かさっと嫌な予感がした。
慌てて研究員たちを飛び越え、ドアに近寄る。閉め忘れた隙間から、中をそっと覗き込んだ。

途端、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。


薄い光の中で、抱き合っている、シスイと、ナマエ。

殴り飛ばしたい。
一番はじめにそう思った。今すぐ飛び込んで、シスイを殴って、彼女から離したいと、そう思った。
けれど、無理矢理にバクは理性の糸を手繰り寄せた。遠慮がちに背中に回された細い手が、震えているように見えたのだ。シスイの顔は見えないが、ナマエの表情は、パネルの淡い光に浮かび上がっていた。

静かに涙を流して、目を閉じているナマエ。

気持ちがすっと落ちていくのがわかった。バクは、ナマエの泣き顔を、数えるほどしか見たことがなかった。彼女の両親が死んだ時、コムイがここを出て行く時、初めて仲間が死んだ時。そのどれも、バクは側にいた。

でも今、彼女は、他の男の胸で静かに涙を流しているのだ。

悔しさと絶望と無力感と、いろんなものが混ざり合って、バクの息を止めてしまいそうだった。それをなんとか、細く細く吸って、バクは一歩さがった。そのまま、逃げるように駆け出す。

前からじわじわと、何かが変わる予感がしていた。
心地よい温度は、いつか冷める。
いつか彼女が、自分のもとから去っていくのは、はじめから分かっていたこと。

それを今更繋ぎ止めたいと思ったところで、バクにはその手段が思いつかなかった。


「バク様!」

自分の部屋に飛び込むと、ウォンがお茶を淹れている手を止めて、驚いたように声を上げた。
小さい頃からずっと聞いてきた声に、荒れていた心が少し落ち着くような気がして、バクはゆっくりと机に近づき、そのまま椅子に座って突っ伏した。

「バ、バク様!どうかなされましたか!?」
「………」
「お疲れでしたら、ちゃんとベッドで、」
「アイツは、」
「え?」
「アイツは……俺の、なんなんだ……?」

吐き出した声は思いのほか弱々しくて、なんだか嘲るような笑いまでこみ上げてくる。
ウォンははっと息を止めて、それから静かに呟いた。

「ユイナ殿のこと、ですか?」
「……そうだ。こんなにも長く一緒に居たのに、アイツは、」

簡単に、遠いところに行ってしまう。

自分の手の届かないところで、自分の知らない人になってしまっていくのが、怖かった。かといって、そこまで手を伸ばすことは、自分には出来ない。
自分は、ただの彼女の上司なのだから。

「ただの上司、か」
「それは違いますよ、バク様」
「ウォン、」
「苦しくなればなるほど、それだけ彼女のことを大切にしてらっしゃるのだと思います」
「………当たり前だ。俺は、アイツが幸せならそれで、いい」

ただ笑っていてさえくれれば、その隣に誰が居ようと、どうだっていい。
彼女が幸せなら、それで何も問題はない。
それを支えてくれるのが、自分じゃない他の奴でも、いいはずだったのに。

ずっとそう思ってきたはずなのに、どうしてこんなに苦しいのだろうか。

「……バク様」
「………」
「お疲れのようですから、今日はきちんとお休みになってください」
「……ああ」

ウォンは、湯飲みを机の端に置くと、彼が見ていないのにも関わらず、恭しく一度礼をして部屋を後にした。
憔悴しきっている主を残して去ることは躊躇われたが、それこそ自分が口を出すことではないと、ウォンは理解していた。

「どうぞ、自分の気持ちに素直になられてください、バク様」

呟いた言葉は、当の本人には届かず。
ひねくれものの主のために出来ることはなんだろうと、ウォンは頭をめぐらせるのであった。
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