皆が見守る中、ナマエがそっとキーボードのエンターキーを押す。
画面にデータ送信中の表示がしばらく点滅したあと、完了の文字が液晶の中央で光ると、終わったあああ!!と競技場の歓声のごとく、研究室で叫び声があがった。
データの解析と事件の処理は終わり、全てが本部へと送られた。ここから先は本部の仕事。支部の役目はここまでである。
ばたばた、と研究員が次々とドミノのようにその場に倒れこみ、意識を失うように眠りに落ちていった。すぐに床は横になった研究員たちで埋め尽くされる。
ナマエはそれを見て微笑むと、部屋の隅に積み上げられていた毛布を引っ張ってきて、一人ひとりにかけてやって回る。
結界装置の修理用工具を片付けていたシスイが、大きな欠伸と共に背伸びをした。
「お疲れ、シスイくん。寝ていいよ、片付けておくから」
「ふあ...ありがとうございます。すみません、ナマエさんだって疲れてるのに...」
「いーのいーの。ほらほら、おやすみ」
シスイは疲れた顔で微笑むと、ずるずると机の上に突っ伏して、次の瞬間には静かな寝息をたてていた。その肩にも、毛布をかけてやる。
彼にはああ言ったものの、数分仮眠をとったとはいえ、正直体力的に限界が近かった。
それでも、今ここで自分も倒れてしまうわけにはいかなかった。何故なら、自分よりも誰よりも寝ずに一番働いていた人物が、まだ起きていたから。
ナマエは、毛布を胸に抱えて奥の部屋へと続くドアへ目をやった。
その向こう側では、多分まだ、支部長とリナリーが難しい話をしているに違いない。
「...支部長、大丈夫かな」
足元に転がっている研究員の顔を見ながら、ぽつりと呟く。
彼等でさえ、自分でさえこの状態なのだ。口には出さないが、全てを統括して指揮し、作業していた支部長が一番疲れているはず。それなのに、まだ部屋から出てくる気配がなかった。
リナリーがいるからといって、彼女と他愛ない話をするために仕事を放棄するような人ではないのは、ナマエはしっかりと理解していた。
きっと、モニターを見ながら、何か重要な話し合いをしているに違いない。
こちらの仕事が片付いたことを伝えたほうがいいのだろうか、そう考えたが、そこから動くことができなかった。
頭では、そんなことはないと、理解している。でも、扉を開けたら、支部長とリナリーが楽しそうに笑っていたら?
そんなとき、思考の途中で見つめていた扉が開いて、思わず目を逸らした。
誰かがほっと息をついた気配がした。もう一度視線を戻せば、支部長が呆れた顔をしていた。
「終わったようだな。...まったく、だらしがない奴等め」
そう言いつつも、先ほどの安堵のため息で、彼が研究員たちを心配していたのは明らかだった。
ナマエは最後の毛布を足元の男にかけてやると、支部長を振り返った。
「ご苦労だったな。大丈夫か、ナマエ」
「支部長こそ、お話は終わったんですか?」
「ああ。リナリーさんを送ってくる。ちゃんと休めよ」
どうぞ、とバクが丁寧に振り返ると、リナリーがドアから顔を覗かせて、一瞬驚いて数歩下がった。
それもそのはずだ。床一面に人間が転がっているのだから。
「私も、何かお手伝いを、」
「いえいえ。そんな滅相もない!リナリーさんも、早くゆっくり休んでください」
バクは困ったように優しく笑うと、彼女に気づかれないように足先で団員を転がして道を作って彼女を案内していく。
「ナマエ、またね」
「ええ。気をつけてね、リナリー」
先ほど自分が考えていたことなんてすっかり忘れたように、ナマエは微笑み返す。
自分もいっそのこと、一緒に見送りに行こうかと思いかけ、ぐっと堪えた。
仕事で疲れ切っているだろうに、笑顔を浮かべるバクの姿に、ひどく胸が痛むのを感じた。
「ナマエ殿、」
モニタールームから声がかかる。振り向けば、ウォンが受話器を手に顔を覗かせている。
「コムイ室長殿から、お電話です」
「もしもーし、ナマエ?元気かい?」
受話器を耳に押し当てれば、テンションのいくらか高い陽気な声が響く。
ナマエは懐かしさに思わず笑みを溢しながら、もちろんです、と答えた。
「リナリーは?大丈夫?」
「今、支部長がお見送りに行ってますよ」
「......二人きりで?」
「ええ...いやいや、まったくそんな心配するようなことは!!!」
受話器の向こうの空気が一瞬冷え切ったのを感じて、慌てて付け加える。
コムイのシスコンぶりをしっかり把握していたナマエは、喚くか泣き叫ぶか暴れるかするかと思ったのだが、予想外に彼は小さく息を吐いただけだった。
「心配は、してないよ」
「....?」
「それよりも、ナマエ。新しい団服の素材の資料、あれ受け取ったよ」
「あ、忙しいのにすみません…」
「いや、ほんとに、すごく良かった。早速実現化させてるところだよ」
「...!あ、ありがとうございます!」
思わず声が高く震える。ナマエにとって、コムイは兄のようであり、そして同時にとても尊敬している人である。そんな人に褒められるのは、やはりくすぐったい幸せを感じる。ナマエは受話器をしっかりと握り締めて、相手に見えはしないのに思わずお辞儀をした。
「それでさ、ボクからの提案なんだけど、」
コムイの声が、急に真剣なものになる。
肩に力が入って、ナマエは聞き漏らさないよえに聞こえてくる声に集中した。
「本部に、来てくれないかな」
言葉を、見つけ出せなかった。
「これからもっと戦争は激しくなる。君の頭脳が必要になると思うんだ」
「.....」
「僕は、一人の優秀な科学者として君をスカウトしたいんだ。君はやっぱりすごいよ。もう十分本部でやっていけるはずだ」
「.......本部、で」
受話器を落としそうになるのを、震える手でなんとか握り締めて耐える。
頭の中が真っ白になって、何を言っていいのか分からない。
嬉しい。ほんとうに、嬉しい。
科学者にとって、本部勤めは最高の憧れ。ナマエも漏れずそれに当てはまる。
はずだった。
それなのに、なぜ、こんなにも苦しいんだろう。何も迷う理由なんてないはずなのに。
「....わたし、は、」
脳裏に、ぶっきらぼうな男の顔が現れる。
金色の髪が輝いて、こちらに向かってちょっとだけ、困ったように微笑むのだ。
ちょっと面倒で、俺様で、堅苦しくて、だけど誰よりも優しい人。
「(支部長....)」
離れることなんて、考えたことも、なかったのに。
「答えは急がないから、じっくり考えてみて欲しい」
「......は、い」
「うん。じゃあ、しっかりね、ナマエ」
がちゃん、と電話が切れる音で、思考が一瞬切り替わる。
ナマエは震える手でそれを置くと、モニターの前の大きな椅子に座り込んだ。
そしてそのまま、膝を抱えて顔をうずめる。
(わたし......)
誰かの足音がして少しだけ顔を上げれば、差し込んだ光の中で、バクがそこに立っていた。
「コムイから電話があったそうだが.....ナマエ?どうした?」
「しぶちょ.....」
小さく丸まったナマエの姿を見た彼は、焦った様子で彼女の前に屈むと、顔を覗きこむように見上げた。
その視線に捕まらないように、不自然にならない程度に、顔を背ける。
「体調が悪いのか?それとも何かコムイに言われたのか?」
「...いいえ」
「そうか....?」
その表情は見えないけれど、バクの声は不安そうに沈んでいた。
しかし、それ以上言及しようという気配はない。それと同時に、そこから立ち去る気配も。
ちょっとの沈黙のあと、そっとナマエの頭に何かが触れる。暖かい、てのひらだった。
「まああれだ.....とりあえず、ゆっくり休め」
少し強い力で、髪をかき乱される。優しく撫でるのとは少し違う、でもとてもあたたかかった。
涙が出そうになって、ナマエはどうしても顔を上げられなかった。
ぶっきらぼうな優しさが、どうしようもないほど、苦しくて痛い。
好きだ。
この人が、好きだ。
「.....支部長」
「なんだ?」
聞いてはいけない、そんなことわかっていたのに。一生口に出してはいけないと、分かりきっていたことだったのに。気が付いた時から、死ぬまで隠し通すつもりだった気持ちが、自分で抑えられなくなってしまった。
「私は....支部長の、何ですか?」
決して言ってはいけない言葉が、零れ落ちてしまった。