ぽつり、と自分で呟いた言葉が胸に突き刺さるように、冷たい空気を震わしていた。
それに気がつかないふりをして、ナマエは静かな微笑みを浮かべたまま、こつこつとウォンの数歩先を歩く。
少し廊下が薄暗いことをいいことに、後ろは振り向かない。

「....なぜ、そんなことを仰るのですか」
「え?」
「ナマエ殿は、誰よりも、バクさ――」
「...あ」

ぴたり、とナマエの足が止まる。それに驚いて、ウォンの歩みも自然と止まり、言葉が途切れた。

驚きに支配される頭の片隅で、その先の言葉を聞かなくてよかった、とそっと思ったのは、彼女の姿が見えたとき。
研究室の重たいドアの前で、うろうろしている人影。

まさか、

「....リナリー?」

その黒い影は、ナマエの言葉を拾い上げて驚いたように顔を上げると、華のような笑顔をひろげた。
冷たい廊下が、明るいランプに照らされたように暖かくなるような笑顔だ、とナマエは思った。
ソプラノの可愛らしい声がそれに合わさって。

「ナマエ!」
「久しぶりねリナリー!一年ぶりぐらい?」
「ええ!嬉しいわ、ナマエに会えて!」

綺麗な長い髪が、彼女がふわりと動くたびに、優しい波のように流れる。
リナリーはそのままナマエの前まで駆け寄ると、きゅっと彼女の腰に抱きついた。

「もう、リナリー子供みたい」
「だってナマエ、お姉さんでしょ?」
「なによーちょっとしか変わらないでしょ?おばさんだって言いたいのかなー?」
「ふふ、元気そうでよかった!」

にこりと笑いながら、手を握ってきたリナリーの手は、包帯が綺麗に巻かれていた。
彼女に会うときは、いつもそうだ。戦場で戦うエクソシストのことを思って、心がずしんと重くなる。
そんな辛い様子を微塵もみせない彼女は、笑顔のままナマエの後ろを覗いてお辞儀をした。

「ウォンさんも、お久しぶりです」
「よくいらっしゃいました、リナリー様」
「この間の件、リナリーが解決してくれたのよね?」
「ええ...それで、バクさんに報告があって来たんだけど...」

ちらり、と重圧感のある研究室のドアを見る。
彼女の口から出た名前に、ちくりと何か小さな痛みを感じながら、それを押し留めてナマエは笑った。

「遠慮してるの?なら心配ないよ、だって今すぐ――」
「リリリ、リナリーさん!?」

ばたーんとものすごい音がして、今まで威圧感を放っていたドアがいとも簡単に開け放たれた。
そこには顔を真っ赤にして、驚きと興奮を隠せない様子のバクが小刻みに震えていた。
口をぱくぱくさせて、今にも蕁麻疹が表れそうな様子である。

驚いて目をぱちくりさせているリナリーに、ナマエは肩をすくめてみせた。

「...ほらね?」



「ナマエさん、あの人誰ですか?」

リナリーとバクが研究室の奥へと入っていくのを見ながら、隣にいたシスイがそっと耳打ちした。

戦場はいくらか落ち着いてきていたものの、やることは見事に山積みのままであった。壁に寄りかかってうつらうつらしている者が多数。
彼等を起こす役目であるバクが、客人の接待に嬉々として追われているため、リタイア者が続々出てきている。
ナマエは、気合を入れるために髪を高く結わえながら、ちらりと横目で彼女たちを見た。
どうやら、奥のモニタールームに案内するらしい。
足取り軽くにこやかに、しかしどこか緊張もしている支部長の姿を見て、研究員の何名かが唖然としていた。シスイもその一人だった。

「そっか、シスイ君初めて会うのよね。あの子はリナリー・リー。エクソシストで、コムイ室長の妹さんよ」
「あ、聞いたことあります。へえ、あの人が...」
「かわいいでしょ」
「!?」

隣で羽ペンで計算式を解いていたシスイのペン先が折れて、インクの染みを作った。
ナマエはぱちん、と結んでいたゴムを離すとにやりと笑った。

「あらあら」
「ちがいます!い、いや、確かにかわいい人だなーって思います、けど」
「けど?」
「けど......俺はっ!」

シスイは突然、音を立てて席を立ち、じっとナマエを見つめた。
真剣な瞳で、でも緊張を押し殺すように、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
不思議そうな顔をするナマエから視線を逸らさないまま、ゆっくりと口を開いて、

「はーい、ストーップ」

そのまま口に飴玉を放り込まれた。

「...っ、ジジさん!?」
「計算とめんなよー。ほらほら、疲れには糖分だろ?ナマエもどーぞ、はい、あーん」
「あーん...てするわけないじゃないですか!」

ばん、とナマエが机を叩く音と、陶器が割れる音が同時に重なった。
自分が机を揺らしたことでカップが落ちたのかと思い焦って周りを見るが、すぐに幾つか向こうの机からの音だと分かる。
顔を覗かせれば、ごめんなさい、と綺麗な声が焦っているのが聞こえた。

「いえいえ!ボクの不注意です、すみません、お怪我はないですか?」
「私は大丈夫です。ごめんなさい、ちゃんと渡さなかったから...」

二人の足元にカップがひとつ割れ、紅茶が床に染みこんでいるのをみて、ナマエは合点がいきため息をついた。

どうせ、カップを渡す時に指先が触れたとかどうのとかで、支部長が焦ったのだろう。自分とは、同じペットボトルの水を平気で飲むくせに。
初々しい十代かよ、と心の中で思わず呟いて、慌てて首を横に振った。

「(変なのは、支部長じゃなくて、自分だ...)」


こんなこと、ずっと見てきたはずなのに。


「うわー...あんなバク支部長、初めてみました。なんかヘンですよね?」
「ああ、支部長はあの子が好きだからな」
「ええ!?.....て、またジジさんの勘ですか。もう驚きませんよ」

呆れたように首を振るシスイに、ナマエは新しい羽ペンを渡しながら微笑んだ。

「ジジさんの当てにならない勘じゃないのよ。支部長はリナリーが大好きなの」
「え?」
「見れば分かるでしょ、あの反応。リナリー見るだけで蕁麻疹出ちゃうぐらいだし、しかも――」
「しかも?」
「あー.......ううん(隠し撮りのことはさすがに言えないわ)」

シスイはモニタールームに入っていく二人の姿を見送りながら、へえと唖然とした声を漏らした。
ペン先をインクにつけたまま、困惑しているように目をうろうろさせる。

「....シスイ君?」
「俺てっきり、支部長は、その、」
「あーめんどくせーなあー!誰か結界装置の修理代わってくれないかなあー!」
「...はあ、ジジさん.....いいですよ、これ終わったら俺が代わります」
「やったー!」

後ろで万歳をしているジジを無視して、ナマエはパソコンを起動させた。
低い機械音が耳を心地よく振動させて、なんだか嫌なことも振るい落としてくれそうな気がした。
いつまで経っても、この機械音と薬品の匂いだけは、遠い記憶を呼び戻して、自分を落ち着かせてくれる。


ナマエは長く息を吐いて、自分の頬を引っ張った。
もう全て忘れてしまえ、仕事に没頭してしまえ、と自分に言い聞かせて、そっと指を離す。
じわりと残った痛みが消えていくのを待って、そっと視線を上げた。

丁度モニタールームから顔を覗かせて、研究員に指示を出していたバクと目が合う。

じっとお互い少しの間見つめあったあと、ナマエは目を逸らすかどうか逡巡して、


そっと微笑んだ。
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