「ふあぁ...眠い」

ナマエは背伸びをして、床に放りだしてあった科学班のシンボルである白衣を、手探りで引っ張り出した。
それを掴んだまま、もう一度欠伸をする。淀んだ頭の中で、まだ寝たい気持ちと起きなければいけない責任感がせめぎ合う。
起きて一番の台詞が「眠い」とは、なんと若さの足りない女であろうか。
自分の歳不相応にぎくしゃくする体を恨みつつ、なんとか仮眠を取っていたソファから起き上がった。

「......え」

目を擦りながら時計を見て、ぴたりと動きをとめた。
まずい。予定よりも10分多く寝てしまった。
先日、支部の管轄内で大量のアクマが現れたために対処に追われていたここ数日間は、いつにもまして科学班は戦場であった。
データの分析、本部との連絡、エクソシストのサポート、壊された街の復興援助。やることは大量にある。
そんな中で、他の研究員が気を使って数分だけでも休むように言ってくれたというのに、寝過ごすとはなんたる失態。

ナマエはすぐに白衣に腕を通し、サイドテーブルに置いてあった苦めのコーヒーを一気飲みすると、ドアを開けて駆け出そうとした。

のだが、

「だめですよ、ナマエ殿」

目の前に、微動だにせずに微笑みを浮かべて立っている人物がひとり。

「......」
「おはようございます」
「おはよーござ....えええ、ウォンさん!?」

バクの付き人のはずであるウォンだった。まるでずっとナマエの部屋の前に居たかのように、まっすぐ直立不動である。
彼は驚愕しているナマエを見て、微笑みを崩さずに言った。

「髪が乱れておいでですよ」
「え...あ、どうも」
「それから、白衣が表裏反対です」
「うあ、ほんとだ」
「もうひとつ。靴が片方掃けておりません」
「........」

この人はいったい誰の付き人だっただろうか。
ナマエは言われた点を次々と直し、最終的に取り出された鏡を覗きながら、ウォンが何故ここに居るのだろうかと考えていた。
その考えを見通したように、彼は笑いながら歩き出した。

「なかなか来ないナマエ殿を心配して、バク様が私をここにやったのでございますよ」
「うわ...怒ってましたよね、支部長」

ナマエは走り出したいのを押さえつけて、何故かゆっくりと歩くウォンに無理やり合わせていた。

「いえ。心配だから様子を見に行け、しかし無理やり起こすな、と」
「.....ほんとに?」
「ナマエ殿は、先頭に立って今回の件に取り組んでらっしゃいましたから。数日間寝ずに誰よりも働いていたのは、皆知っております。...ただ、」
「ただ?」
「身支度もせずに飛び出してくるだろうから、注意をするようにと」
「..........すみません」

支部長にまで、女としての品位を疑われている。ついでに全ての行動を見透かされている。
ナマエは情けなくなって、頭を抱えた。

こんなだから、いつまで経っても、


「....あの、聞いてもいいですか?」


一向に歩みを速めないウォンに諦めて、ナマエは同じ速度で歩きながら床に視線を彷徨わせた。
ここ最近、ずっと思っていたこと。シスイにも言わなかったことが、ウォンになら話せてしまうと思える自分が不思議だった。

「...支部長、最近、変じゃないですか?」
「そう思われますか?」
「なんか、なんだろ....寂しそうというか、悲しそう?」

最近、ふと彼を遠くに感じることがあった。
温度は、いつもと変わらない。寧ろ生暖かすぎるくらい。小さなことでいがみあったり、今日のように優しい時があったり。
騒いで、怒られて、笑って、仕事して、他愛ないことを喋って。

ただ、そんな日常のひとコマでふと、一瞬だけ彼の世界が切り取られる。
今まで綺麗に馴染んでいた境目が、壊れて散らばっていく欠片のように、ぼろり、ぼろりと。
遠くを見つめて、何かを考えて。
そんな時、彼はひどく優しくて、悲しそうな微笑みを浮かべるのだ。

「....ナマエ殿」

ウォンの静かな声に、びくりと肩が震える。

「そう思われるのでしたら、バク様の傍に居てあげてください」
「...わたし、が?」
「はい」


"どうも、しない"

あの不思議な香りが立ちこめた部屋で言った、バクの一言がナマエの頭の中で響いた。

どうもしない。

それは、自分が誰と付き合おうが、何をしようが彼は何も言わないということ。
もともと、家族のような暖かく、そして逆にいえば生ぬるい関係である。それは、覚悟していたこと。
彼はいつだって、いつまでも、兄であり父であり上司であり恩人なのだ。

その中に、ナマエが望む答えは、ない。

どうもしない。

.....そんな言葉を、望んだわけじゃないのに。


「.....だめですよ」
「え?」
「私じゃ、だめです」

ウォンが、驚いたように聞き返した。
そんな彼をよそに、ナマエは困ったような微笑みを、いつにも増して大人で綺麗な微笑みを、浮かべた。

ずっと、いつまでも、いつまで経っても、乗り越えられはしない壁が目の前を真っ暗にする。

今まで気づかないふりをしてきた感情が、そして真実が、あの日のあの一言で全てがあらわになってしまった。
隣に居るのに、触れられない、触れることを許されない。
彼を支えることが出来るのは、彼が望んでいる人は、私じゃない。


きっと、永遠に。
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