俺は今、必死に九九を数えている。
口の中でもごもごと早口で、さらに無表情でそれらを唱える様の、いかに滑稽なことか。
しかし、滑稽でもなんでもいい。そう思えるほど俺はピンチで、目の前の怪物に怯えるしかない、使えないダメダメなヒーローなんだ。
「……んぅ」
目の前の怪物、もといなまえが身動ぎをする。かさりとした衣擦れの音ひとつにおれの肩は異常に跳ね上がる。ああダメだと自分を叱咤し、九九からステップアップして、今度は円周率を唱え始める。
「3.141592….」
そもそもは、なまえが悪いのだ。
盗みが終わっていつものように彼女の部屋のベランダへ、またまたいつものように、鍵のかかっていない窓を開けて部屋にあがる。本来だったらそのあともいつも通り、彼女が冷たい麦茶と軽食を用意してくれていて、談笑しながら二人で夜を過ごすはずだった。
もちろん、あわよくば、なんて考えがないわけじゃない。ないわけがないじゃないか。俺だって男なんだし、なまえは彼女なわけだし、そりゃもちろん、ごにょごにょ
そんな俺の、後者の期待が具現化されたのか、窓を開けたら一番にとんでくる「おかえりなさい」はなく、代わりに俺を迎えたのは、ソファですやすやと無防備に眠るなまえだったのだ。ちなみに服装は、タンクトップに、ショートパンツ。確かに部屋はクーラーもつけていないし、これくらいの格好じゃないと暑いかもしれない。現に俺もすぐさまキッドの衣装を脱ぎ捨てて、今は黒いTシャツに白いズボンというなんとも中途半端な格好。
それにしても、それにしてもだ。
タンクトップからちらりと見える胸元とか、大胆に投げ出された柔らかそうな太ももとか、少し汗のにじむ首筋とか鎖骨とか、一々気にし出したらきりがないほど、なまえの頭のてっぺんから爪先まで、すべてが俺を殺しにかかってきている。ごくり、唾を飲んだ。ああ、くそう、なんてかっこ悪いんだ、俺。
「なまえちゃーん、そろそろ起きてくれないと、俺、やばいよー」
ソファの横に座り込んで、声をかけても起きる気配がない。正直なところ、本気で起こすつもりがないのだから仕方がない。気を紛らわせようとしているけど、その実、彼女のことを凝視してしまって喉を震わせているのだから、紳士な怪盗の名が聞いて呆れる。親父、ごめんな。
「なまえー…」
もぞり、動く。
起きてくれるのかと思いきや、彼女は仰向けに寝返りをうっただけだった。寝顔がしっかりと見えるようになって、無防備さに磨きがかかる。起きてる時だってとってもかわいいけど、寝ている顔も、こちらが赤面してしまうほど可愛いだなんて反則だ。
顔が良くみたくて、少し身を乗り出して彼女を上から覗き込む。ああ、しまった。上から覗き込むって、まずかったかも。無意識に右手が彼女の太ももにそっと触れる。ぴくりと眉が寄せられて、なんだか少し罪悪感。でも止めることができなくて、しばらくその柔らかさを楽しむ。ああ、キスがしたい。
「………ちょっとだけ」
恋人だし、いいよな。
自分に言い聞かせて、唇を寄せる。ふわりと柔らかい感覚に、くらくらした。
こんなにも彼女に惚れ込んで、落ちるところまで落ちてしまうなんて、出会った時は想像もしていなかった。いまだって、そう。まるで底なし沼みたいに、俺はどんどんどんどん彼女にはまってゆく。愛しい、愛しすぎて、いつか俺はおかしくなってしまうかもしれない。
「……かいと?」
ぼんやりとした二つの目が俺を見上げて、柔らかい唇がひっそりと俺の名前を呼んだ。
キスで目を覚ますなんて、お姫様みたいだな、って笑ってやると、よく理解できていないようで、首をこてんと傾ける。かわいい。
うっすら汗で張り付いた前髪を額からどけてやると、彼女はまだ寝ぼけ眼で、へらりと緩んだ笑みを浮かべた。
「おかえり、快斗。だいすき」
ほら、そうやって、君はまた俺を溺れさせてしまうんだから。